無限ループ

夏休みはとっくに終わり、息子は運動会の練習がいやだと言いながら学校に行き、あれこれ学校の話題と一緒に帰ってくる。
夏休み明けの数学のテストの点数がすごい。上は100点から下は1けたまである、と言う。若者、30以下は追試らしい。(つまり、ぼくが何点でも問題ない、と言いたい)。それから「ここで問題です」ときた。A君の点数はB君の6倍でした。そしてそのB君の点数はC君の6倍でした。ABCそれぞれの点数は何点でしょう。

3年生はこれから1年かけて、それぞれ自由研究するらしく、テーマを考えるというのが、夏休みの課題のひとつだった。
そういえば、小学校のときに「トイレの歴史」とかを自分で調べていたのは、面白かったけど、いまの息子のテーマは、鉄道の話のほかにない。
ほかの人たちはどんなテーマなのかと聞いたら、「小児がん」とか「不登校」とか、なんかすごい。「絶滅危惧種」を絶滅から守る、というテーマもあったよという話をしていたら、
絶滅危惧種を守るには、人間が絶滅するのが話が早い、などとパパが口をはさむ。
そうだけど。

ドストエフスキーのもうひとつの地球の話みたいになるよね。ああ、あれね。
と私と息子は、「おかしな男の夢」という短編の話を思い出す。
自殺したいと思う男が、夢のなかで、もうひとつの地球に行く。そのもうひとつの地球はこの地球とは違っていて、心の美しい人が住んでいる。妬みも争いもない星なのだ。もうひとつの地球の美しさに触れて、目覚めた男は、自殺を思いとどまる。だが、男が訪れたために、もうひとつの地球では、妬みや争いが生まれてしまった、という話。

それで、息子が言ったのは、
「パヤタスは大丈夫かな」

つまり、自分が行ったせいで、あの土地を汚染してしまったのではないかと言うのだ。

たぶん、一週間の滞在は、なかなかしんどかったのだろう。まわりの思いやりと、うまくふるまえない自分に葛藤して、そのしんどさが自分の汚れを意識させる。ぼくはパヤタスの人々を、傷つけなかっただろうか?

「パヤタスは平気だよ」
きみみたいな子はたくさんいたからね。
パヤタスは、たくさん傷ついて、たくさん乗り越えてきているからね。

きみは、いい子だったよ。

無限ループなのだ。内なる暴力性というものはある。生きていれば、それでもって他者を傷つける。他者を傷つけないためには、他者に出会わないことだ。ひきこもるか。いっそ死ねばよい。でも自殺もまた、暴力なのだ。右に行く人が邪悪だからと言って、左に行く人に暴力性がない、というわけではない。生きても死んでも、右へ行っても左へ行っても、暴力の汚染から抜け出せない、どうかして自分を消去したいのにできない、という基本的な絶望を、どうすればいいのか、ということを、私はぐるぐるぐるぐる考え続けた。
この絶望にこたえが出せないのに、なぜ人が、何かを望んだり、たとえば家族をもったり、子どもを産んだりすることが、できるのか、なぜ、こわくないのか、私は不思議でしかたなかった。

男は、もうひとつの地球を滅ぼした。星ひとつ滅ぼすほど、人間は邪悪なんだけれども、たしかに。でも、星ひとつ滅ぼすほど邪悪でも、男が自殺を思いとどまった、ということは、絶対に大事なんだよ。
ということを、忘れないでいてくれるといいんだけどな。

昔、パヤタスに、一番最初に日本からの支援が来たあと、学校で教師たちが盗みをはじめた、ということがあった。支援は一時的なもので、すぐに底をついたのに、日本から支援がきたということはたくさんお金があるに違いない、でも私たちの給料は上がらない、それはレティ校長が独り占めしているのだと思った先生たちが、学校の備品やお金を盗みはじめた。
それまで、姉妹のように思って一緒に働いてきた人たちが不信で傷ついてしまって、教師もお金もなんにもなくなったところに、レティ先生がひとり残って学校を続けていた。子どもは200人来ていた。

善意だからといって、善い結果をもたらすとは限らない。いい気な善意が、信頼や思いやりや、尊いものを壊してしまった。こんなことなら、最初から関わらなければよかったのに。と思ったけれど、もともとの善意を責めるのも、違う気はした。
それでも日本で、支援をやめた人たちが、支援は彼らのためにならない、と言っていると耳にしたときは、怒りで頭がぼうっとしたんだけど。

だれかが、ごめんなさいを言わないと、せつない。
そういうなりゆきの、そういう場に居合わせてしまったので、支援グループをたちあげることになったし、毎年通い続けることになったんだけれども。

たぶん、この地球に生まれたということはよ、暴力や邪悪の遺伝子をもってるってことよ。暴力は伝染するし、自分だけ伝染されずにすむということもないんだけど、その無限ループを、いまいる場所で、生きてどうやって食い止めるかは、それぞれに課せられた宿題なんだと思うよ。

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帰省のとき、宇和島駅で久しぶりに見てなつかしかった「安全第一」の門。

スペシャル・チャイルド

23日。パアラランに送金。送金できた。
ほっとしています。緊急に助けてくださった友人のみなさま、ありがとうございます。
いつもいつもぎりぎりの自転車操業なのですが、こんななか30年近くも学校が続いているということが、なんかもう人間ってすごい、と思う。
でも、本当になんてスリリングな自転車操業
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パアラランに、息子にそっくりな男の子がいて、それはたぶん、息子を連れていかなければ気づかなかったかもしれない。机に向かっておとなしくすわっていられないとか、歌ったりお遊戯したりしない子はどこにでもいるので、何とも思わなかったかもしれない。アイヴァン(4歳)を、レティ先生はスペシャル・チャイルドと言った。特殊な子だと。そして、特殊な子は、ほんとにどこにでもいるのだ。
発達障害の概念は、ここまで及んでいないようだった。ノーマルかフール(知的遅れがあるかないか)、フールではなさそうなのにノーマルなふるまいをしないアイヴァンは、スペシャル。アイヴァンがスペシャルなのは、一人っ子で兄弟がいないからだろう、と話したりする。私の子どもが発達障害なら、アイヴァンもきっとそうである。それくらいそっくりだったのだが、発達障害という概念が、いまここで必要かどうか、については、考えてしまった。
なくてもいいのではないか。スペシャルな子どもには、スペシャルなケアがすこし必要で、それは、概念があるなしにかかわらず、それぞれの子どもたちに必要なスモールステップを、用意できればいいのだし、パアラランはそれができる。そして子どもはスモールステップをひとつずつのぼってゆけばよいだけなのだ。
で、余計なことは言わないことにした。

4歳の頃の息子が目の前にもどってきたみたいで、私はアイヴァンを見ていることがほんとに面白かった。そういえば、息子が幼稚園の頃、教室を脱走しても、歌を歌わなくても、私は全然心配しなかったな、と思った。
だって私たちの息子なので、歌ったり踊ったり体操したり、たくさんの子と長い時間一緒に過ごしたり、そんな難しいことができるとは、思わなかった。悩んでどうにかなることなら悩んでやってもいいが、どうにもならないことなので、いっさい悩まなかった。
それでも、スペシャルはスペシャルなりに、できることは増えていくので、それはもう楽しいばかりだったのだ。

まわりの子どもに「みんなとちがう」ことを責められ、ぶっ殺す、などと言われるようになってからが、彼の受難だった。障害はむしろ、「みんなとちがう」子どもを許容できず、ぶっ殺すなどと平気で口にできる側のほうにあるのだから、その子たちをどうにかしてほしいと、思ったけど。

アイヴァンそっくりだった私の息子は、3歳半のときに知能テストのようなものの数値が70で、知的な遅れがあるかないかの境目だと言われたが、6歳になったときには、100を超えていた。療育と幼稚園と小学校1年のときの先生にはほんとに感謝しているし、3~6歳の子どもの成長は奇跡を見ているようだった。
だからパアラランのような幼児教育の場はとても大切だと思うよ、という話を、私はレティ先生としたんだけれど、「え、ぼく、そうだったの?」と驚いたのは息子だった。
アイヴァンが自分とそっくりだということは、テレパシーでわかっても、自分の小さい頃のことは覚えていないらしい。たっぷりと話してやったら、他人事みたいに笑い転げてたけど。

ところで、あなたのスペシャルな子どもに、料理を教えたほうがいいよ、とレティ先生に言われたのだった。以前にはレティ先生の次女さんにも言われた。次女さんにはふたりの男の子がいるが、彼らは達者に料理する。あたりまえに家事をこなす。自立の最初はそこらへんから。

息子の、あまりの不器用さに包丁をもたせるのがこわくて、もうちょっと先だ、と思ったのが彼が小学生のときだが、そのあと受験で、そのまま忘れていた。帰ったら料理させよう、っと思って帰国したんだけど、夏休みの宿題あんまりたくさんで、時間なかったな。お米を研ぐのだけはしてもらった。

生まれてはじめて生きている鶏を見たと言われ、ぼくは小さい子との遊び方がわからないと言われ、息子以上に内向的で人間嫌いだった私の、小さかったころと比べてさえ、経験の幅のおそろしく狭いことに、改めて気づかされた旅でもあった。

夏休みが終わって、休み明けの試験も終わって、昨夜、うちのスペシャルな子どもが、パパを相手に、結局夜中2時ごろまで、話しつづけていたのは、マニラで見たあれこれの車のことだった。日本車がどんなにたくさん走っているか、どのメーカーのどんな車種が走っているか。ドライバーがどんな走り方をしているか。あとジプニーについても。
ぼくが見たジプニーはこんなふうにできていた。ハンドルがヒュンダイ、エンジンがフォード、フロントがジープまたは三菱。エンブレムがベンツで、ステッカーがISUZU
よくそんなに見てるな、と言ったら、そういうことは、向こうから目に飛び込んでくるそうだ。息子の撮った写真は、えんえんとえんえんと、車。

夏の旅 山口

旅、というほどでもない、いつもの帰省。17~19日まで。

その前、11日に、盆ダンスというイベントがあって、店出ししたんだけれど、「場違いだよ」と息子と言う通りで、売れなかったなあ。昼間の暑さはとんでもなかったし、私たち以外は還暦超えた人たちなので、手伝っていただくのも申し訳ない、夕方以降は私たち家族だけで、夕涼みの夜。


17日から山口。息子は、先輩から貨物列車の運行について情報を仕入れていたらしく(今度の災害でJRが不通になって貨物輸送がままならない、それで山口線、山陰線、伯備線を通るルートでの迂回貨物輸送のための訓練、だったかな、なんかそんな説明をしてくれたような)途中の駅で、列車を待つ。貨物のない貨物車が通る。

息子は、山口では毎夜、パソコンさわって遊んでいた。何していたかというと、マニラの夜の渋滞をカメラで撮っていたやつを、切ったりつないだりコメント入れたり、動画編集していた。そのなかに3時間いたことを思いだすと、思い出すだけで疲れそうだけど、5分か7分の動画で眺めるぶんには、面白い。
次の夜には、ジプニーに搭載されていたミュージックホーン(パラパラパラパラパラという音の出るやつ)の音と、昼間の街の様子の動画編集。
見ていたら、いろいろ思い出して楽しいが、はじめてのマニラは、息子には刺激が強すぎたらしく、いっぱいいっぱいだった、らしい。

18日は萩の道の駅にお昼ご飯を食べに行く。それから萩駅に行く。東萩駅は去年行ったけど、萩駅ははじめて。きれいでかわいらしい駅だった。なかの展示館も面白かった。観光列車○○のはなし号が通過する。私たちが乗ったのは冬の雨の日だったけど、今日みたいに天気のいい日なら、海もきれいだろうなあ、と思う。
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19日は、美祢の道の駅で、ごぼううどん食べた。食べたかったのだ、ごぼううどん。おいしかった。傍らの川にカモがいた。すこし日差しがやわらかくて、川で遊んでいる小さい子たち見てたら、夏らしいなと思う。これくらいがふつうの夏だと思う。

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息子、宇和島でじいちゃんにもらった小遣いは、私に取り上げられたが(といっても息子の定期代になるんだが)、その分、山口でおばあちゃんにもらって、まるくおさまる。

息子の学校は23日からはじまる。夏休みももう終わりなのだ。
夏休みの宿題は、終わっていない。
私も、する予定のあれこれ、なんにも終わってない、というか、とりかかってない。これからがんばる。

 

 

 

 

夏の旅 宇和島 2

7月9日。父を誘って愛南町までドライブ。紫電改の展示館があって、ロープウェー跡があるところまで。それからさらに、海のほう、外泊の石垣の里まで。

空も海も青いし、山は緑だし、正しい夏休みの色だ。夏休みの宿題の絵をかくと、青と緑の絵の具がいつも足りなくなった。

紫電改展示館は山の上にあって、リアス式海岸がきれいに見下ろせた。どうして、こんなに美しい古郷を出ていかなければならなかったか、せっかくの当たりくじを、ハズレくじと交換してしまったことに気づいた子どものような気持ちがする。思ってせんないことでした。

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紫電改。昭和54年に豊後水道から引き揚げられたのが、展示されている。初めて見る。近くには、海の上を渡るロープウェー跡がある。(昔、一時期は運転していたこともあったのか。南予レクリエーションなんとかの構想など、私が郷里を離れてからのことなので、なんにも知らないのだった)

それから展望台がある。展望台は運転していて、360度回転しながら、リアス式海岸を一望できる。遠く九州まで見えた。これは素晴らしかった。春は眼下の山が、ソメイヨシノと山桜で美しいそうです。

展望台付近に、咲いているのは、沖縄デイゴだと職員さんが教えてくれた。

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 それから、外泊の石垣の里を目指して走る。父が、昔このあたりで、バスを乗り間違えたことに気づいて、降りたあと長い道を歩いたとか、まだ道が舗装されてなかったころ、自転車で走ったとか、昔を思い出してなつかしそうだった。
海辺にお墓。

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石垣の里は、いつ頃から知られるようになったんだろう。私ははじめて来る。映像で見た記憶で印象に残っているのは、70年代かな、の映画『旅の重さ』の一場面。石垣の間の道を、葬儀の列が歩いていく場面だった、と思う。あの頃の南予の風景を堪能させてくれる映画。主題歌は、吉田拓郎の「私は今日まで生きてみました♪」だった。
父は、10年ぶりか20年ぶりかで来たらしいのだが、いや、ここじゃない、こことは別に、もっと違う石垣の部落があるはずだ、と言う。いや、ここでいいと思うよ。たぶん、印象が違っているのだろう。歩いてみると、空き地になっているところも多い。

 

 

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いい思い出ができたと、父が言う。ひとりでは出かけることもなさそうだから、誘ってよかったかな。疲れさせるかと思ったけど、暑いなか、私たちより元気そうだった。父を家まで送って、それから駅に向かう。

予土線予讃線も不通だが、終着駅には列車が止まっているからそれを見に行くって。
予土線のトロッコとホビー列車(新幹線のはりぼて)と予讃線の「みきゃん」がいた。と、そこに、不通で走っていないはずの線路を、アンパンマン(特急列車)がやってくる。息子が大喜び。普段あり得ない編成で走っている。たぶん翌日から予土線が復旧するので、その試運転なのだろう、と言う。

そのあと、兄や叔父たちと焼き肉食べに行く。そのあと、私は高校時代の友だちとファミレスでお茶。

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その翌日の10日。早朝から、息子はひとりで起きてホテルを出て、復旧した予土線の始発を撮りに行った。始発は新幹線だったらしい。
兄と朝ごはん食べて、父に挨拶して、叔父さんたちからお土産もらって(釣った魚の一夜干しとじゃこ天)帰路につく。

四国を出てしまなみ海道渡るまでは順調だったんだけど、山陽道が、事後で渋滞、それで高速降りると一般道もまた渋滞。豪雨災害の傷跡が、まだ生々しく残る道を、のろのろと帰った。

 

 

夏の旅 宇和島 1 

7日。宇和島に帰省。天気よくて、暑くて、海が真っ青だった。写真は来島海峡。

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松山で高速に入りそびれ、途中の駅で、息子はアンパンマン列車など撮影して、もうそのまま一般道をゆく。高速道ができてからは、高速道ばかりだったので、くねくね山道の一般道は久しぶり。四国に帰ってきたという気がした。そうだった。宇和島はこんなに遠くてたいへんなところだったのだ。卯之町からは列車は不通。途中の峠の道はのり面崩落で片側通行。
吉田町あたり、山、あちこち崩れている。川もあふれたみたいだ。1か月経つのに、水に浸かったあとだなあと、わかった。

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豪雨被害のとき、このあたりの被害の報道は遅れた。同じ市内にいながら、父は被害のことを、2日後にニュースで見るまで知らなかった。自宅の雨漏りだけを見ていた。叔父のひとりが住んでいるところは川のそばで、絶対浸かっただろうと思っていたが、そこはいつも浸かる場所なので、アパートの1階は駐車場、叔父の部屋は2階で、問題ない。窓から、前の道を、人が膝までつかりながら歩くのを、見ていた。

宇和島に着いて、父を誘って温泉に行く。それから回転寿司に行く。いつも通り。

8日の朝、兄と朝ごはんして、息子を連れて図書館に行って、暇つぶし。図書館建て替えになるらしい。来年はもうここにはないのだろう。私がいた頃は、もっと古い木造の図書館だった。もういなくなった人たちと一緒にここに来た。図書館で一緒に過ごすことができた人たちのことは、いつまでも大好きだ。
中学校のときに読んだ本を探してみたけど、見つからなかった。何年か前にはあったのに。ずいぶん古いからしょうがないのか。

 

そういえば町にセブンイレブンがやってきていた。父の家の近くのファミリーマートはなくなり、兄のすんでいるところの近くのサンクスKもなくなり、こんどはここにファミリーマートが来るらしかった。マニラと宇和島をつなぐセブンイレブン
そこにかつて何があったか、消えてしまうと忘れてしまう。コンビニの前には何があったのか。高校生のころ毎日見ていたはずの場所なのに、もう覚えていない。

午後、待ち合わせて、釣りへ。マニラの海は宇和島の海と同じ匂いがした(と息子は言った)が、どうだろう。

釣りの用意は叔父がしてくれる。父と兄と叔父と私たち3人。ゼンゴ(小あじ)ばかり釣れた。2時間ほど。全部で80~100匹ほど釣ったんじゃないか。私はずいぶん調子よくて29匹釣った。
湾の向こう岸にも、崩れたみかん山が見えた。

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魚は叔父がさばいてくれて(私は下手なので手を出さない)、夜は飽きるほどの小あじの刺身だった。絶品。残りは一夜干しにしたのを、もらって帰る。

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帰国したら

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帰国したら、台所に山ほどの玉ねぎがあった。お隣が畑でとれたのをわけてくださった。お隣の畑は玉ねぎよくとれる。たぶんそのように土壌改良したのだ。私のところは、植えてもラッキョウのようなものしか取れないので、植えません。
で、一週間もいなければ、すべて枯れているかジャングルになっているかだと思いつつ、畑に行ったら、ブルーベリーがたわたわ実っていた。枝豆もかろうじて育っている。パパが水やりしてくれたらしい。ブルーベリーお隣におすそ分け。


それから私がいない間に、屋根の修理の話がすすんでいた。たまに雨がひどいと雨漏りしてたのが、こないだの豪雨では天井のシミの色が変わるほどだった。瓦ではない、トタン屋根の部分が相当だめみたいなのは、知っていた。全部やりかえないとだめですよ、とずっと以前に言われていたのだが、今はいい塗料もあって、塗り替えだけで大丈夫なそうで、古くて壊れた物干し台の撤去もしてくれるというので、話をすすめたらしい。それは必要なことなんだろうけど、何も今でなくても、と私は思う。お金のやりくり、つらいんですけど。

フィリピンで買ってきた品物の販売の準備をする。情報の整理をする。パアララン、こんなにお金がなくてどうしようと思いつつ、支援してくれる人たち、気にかけてくれる人たちの思いやりが心に染みます。昔、パヤタスのゴミの山で私が学んだのは、生きるのはこんなに難しいサバイバルなことなのかということだったと思うけど、それは、普遍的な現実、ということだったかもしれないと思う。貧困も、暴力も、特別な場所の特別な問題ではなくて、どこにあっても、私たちは、こんなに壊れやすい世界で生きているということなのだ。だから、なんとか支えあって、前を向きたい。
息子、「パアララン・パンタオ物語」を再読していた。行ってきたから、リアルに想像できる、らしい。目の前で読まれると恥ずかしい。

息子は片付かない宿題を前に途方にくれている。たくさんあると、やる気がおきず、それでもがんばって半分ほど過ぎると、なんとかなるだろう、と思って、やっぱりやる気が起きない。いくつかの科目は前者でいくつかは後者、全体としてやる気が起きない。
美術の宿題が、美術館に行ってレポートを書く、というものなので、マニラのメトロポリタン美術館に行ったことを書く、とは言ったが、資料がない。
でも、フィリピン・モダンアートで検索して、片っ端から画像をめくっていたら、数点は見たものが出てきた。知りたかったことがあったので、思いついてSNSで美術館にメールしてみたら、丁寧な返事がきたのが嬉しかった。次の企画展の案内も来ていたけど、行けませんけど、ありがとう。

それから宇和島に帰省の準備。7日に帰省。

 

 

夏の旅 フィリピン 6 

 

 

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7月31日。

学校の裏から見えるゴミの山。草におおわれているから、知らない人は本物の山と思うが、ゴミでできている。20数年前、はじめて来た頃は、平らかだった。レティ先生がここに来た頃は、いちめん田んぼだった。

朝、子どもを連れてくるお母さんたちのなかに、隣人のカンデラリアのお母さんがいる。20数年前にはじめてあった頃に、8人ほども子どもたちがいたから、ずっと年上のおばさんの気がしたけれど、実は数歳しか違わない。以前は彼女の子どもたちが、パアラランに通っていた。いまは娘の子どもたちが2人、男の子と女の子が、通っている。
学校前のテラスでは、お母さんたちがしばらくの間、おしゃべりをしていく。情報交換の場でもあるのだった。

 

息子とふたりで、ジプニーに乗ってエラプまで行く。先日撮り忘れていた校舎の写真。奨学生のジェイペロウとライジェルが来ている。

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教室では、ベイビー先生の孫(娘のエライジャンの息子)のPJ(2歳)がうろうろしていて、息子のあとについてゆく。「どうしよう。ぼくは子どもとどうやって遊んでいいかわからない」と言う。たしかに。そういう経験はしてきていない。それでも、抱っこはしてあげたみたいだった。
PJはもうアルファベットが読める。
エライジャンは去年生まれたシャナという名前の女の赤ちゃんを抱いて、キッチンにすわっていた。私はエライジャンを生後3か月のときから知っているけど、そのころのエライジャンによく似ている。「ほら、ロラ(おばあちゃん)ですよ」と私はすっかりおばあちゃん扱いだった。

お昼ご飯のあと、エライジャンの姉のチャイリンが来て、私の髪を切ってくれる。いま、ヘアカットの勉強をしているんだそうだ。フィリピンで散髪すると50ペソ(100円あまり)ですむから、フィリピンで切ればいいよ、と息子に言ったら、彼もその気だったが、マニラに来て思い直した。男の人たち刈上げ頭がとても多い。刈上げはいやだ。
「少しだけ切ってあげるよ」というチャイリンの言葉を信じて、切ってもらう。ほんとうに少しだけ、切ってくれた。
息子、「なかなかいいよ」と私に向かってぼそぼそいう。気に入ったなら気に入ったと、はっきり言えばいいのに、と言うと、なんて言っていいかわからない、などと言う。アイライクディス、でいいんでね? そんなの私でも言える。
でも恥ずかしくて言えないのだ。「彼女は、いい美容師さんになると思う」とあとでまた、私にぼそぼそ言う。

昼休み、ジェイペロウが、子どもたちのノートの準備をしている。文字や数字をなぞって書けるように、赤い点線の文字を書き込んでいるのだ。一冊ずつ。それならできそうなので、息子、手伝う。ジェイペロウ、気持ちよくどさっとノートをくれる。

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午後のクラスの子たちがやってくる。ジェイペロウは絵のすごく上手な女の子だけど、子どもの扱い方も上手で、お遊戯するのに、ジェイペロウが前で踊ると、子どもたちが盛り上がる。そのなかでも、決して踊らない、歌わない子が1クラスにひとりはいて、息子は階段にすわってその子たちを見つめている。

私たちはチャイリンと一緒にモンタルバンの市場までお買い物。息子のズボンを買う。着るものはとても安いので。たくさんの小さなお店がひしめくなかに潜り込んで、あれでもないこれでもないと探すのは、面白い。暑かったけど。

それからジプニーでパヤタスに戻る。ジプニーを降りた近くに、レティ先生の姪の、マジョリーのサリサリストアがある。のぞいたら、娘のジェシカとエイエがいて、ママは家だから、と家まで一緒に行く。ジェシカは半年前に女の子を産んで、チェチェという名前、マジョリーはロラ(おばあさん)になった。私も当然、ロラと呼ばれるわけだった。
マジョリーのいまの悩みは、ジェシカが赤ちゃんの面倒を見ながらできる仕事はないだろうか、ということだ。それは、日本でもとても難しい問題だ。

エイエは高校生。フィリピンの教育改革で、ハイスクールが4年から6年間に伸びた。それはよかったねと言うと、子どもたちにとってはいいのかもしれないけど、そのあとカレッジに行かせなければいけないし、卒業が2年間も伸びるのは、親としてはしんどい、とマジョリー。

赤ちゃんが生まれる。結婚したの?とか、夫は?とかは聞かないことにしている。たまたま耳に入ってくるのでなければ、詮索する必要のあることでもないのだ。結婚はしていないかもしれないし、夫はいても働かないかもしれないし。
大切なのは、赤ちゃんの存在を全力で喜ぶことだけ。そう思う。ここにいると、そういうことがよくわかる。

おやつに買ってくれたバナナキュー(揚げたバナナに砂糖をまぶしたもの)がおいしかった。レティ先生のぶんのバナナキューをもって、学校に戻る。


戻ると、ちょうど午後のクラスが終わったところで、数人の子が残って、先生たちと掃除していた。アイヴァンもいて、箒をもって働いている。
「見れば見るほど似ている」と息子。「ふだんはぼーっとして、なんにもしないでひとりの世界にいるくせに、箒とかもたされると、妙にはりきって、掃除したりするところも、なんかそっくり」と自分で言う。ほんとに。そっくり。
子どもたちが帰っていく。
バイバイ、アイヴァン。来年また会えるかわからないけど、よい人生をね。
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イエン先生とアリーアと一緒に、ダンプサイトを見に行く。坂道を降りる。ジャンクショップがあり、ゴミから発電をしているという発電所がある。パアララン・パンタオの旧校舎があったあたりは草の中。ずっと降りていく。いちめんの草のなかで、ヤギが草を食べていて、あとで写真だけ見たら、秋吉台がどこかの風景にも見えそうなほど。大きな大きな草の山が広がっている。
ふもとの集落を歩く。ところどころぬかるんだ道。たいていの家には窓ガラスはない。いまきみが歩いているのは、たぶんマニラでも最も貧しい地域のひとつだ。

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放課後の教室で、イエン、リサ、マイク先生、アリーアとおしゃべり。勉強している日本語のこととか、フィリピンの小学校のこととか。
私のシャイな息子は、アイヴァンそっくりだったこととか。

たぶんアイヴァンみたいな子にとって、小学校にあがる前に、何年間か小さいクラスで、落ち着いて過ごすという体験はとても大切だと思う。パアラランは、アリーアみたいにアシスタントの先生もいるから、アイヴァンにはとてもいいと思う。
小学校はクラスの人数多いでしょ?と聞いたら、1クラス60人か70人くらいいるらしい。先生たちは、叫ばないといけないから、のどがつぶれてしまうらしい。ドロップアウトする子も多いし、先生たちもそういった子のフォローができない。

これまでもアイヴァンのような子はいたはずで、そういうとき、レティ先生は、小学校に通う年齢になっても、もう一年ここに通わせるように、親たちに言っていた。

貧困の連鎖を断ち切るためには、3歳から5歳の幼児教育がもっとも効果的、と言われている。それはもう実感として、よくわかる。そしてアイヴァンみたいな子が、これからなんとかやっていけるために、パアララン・パンタオの2年か3年はとても大切だ。学校で、みんなとの活動に参加できるために、ほかの子より少し時間がかかり、少し余分なステップが必要なのだが、少しの適切なケアがあることで、乗り越えてゆけることも多い。

息子は、すっかりアイヴァンがお気に入りだ。「アイヴァンは大物になるよ。この学校から、スペシャルな人、プレジデントとか、そういう人が出てきたってことになるかもしれないよ」などと言う。
アイヴァンのことより、私は、君が君自身をなんとか成長させてくれるとうれしいと思うよ。きみが、しっかりした大人になることができたら、それがアイヴァンの希望になるよ。

夜ご飯のあと、息子は、滞在中に一日数行ずつくらい、英語で書いていた日記を、読んで、レティ先生に聞いてもらった。とても立派だとほめてもらっていた。
マニラの交通事情はエキサイティングで、ダンプサイトは、信じられない光景だ。
ダンプサイトを歩いてきたので、息子もすこしは想像できるだろう。レティ先生と昔の話をする。ゴミの山がどんなだったか、蠅がどんなたにたくさんいたか。そんななかで、子どもたちがどんなふうに働いていたか。
面白いのは、やはり、いろんな失敗談で、私の失敗談となると、息子、目を輝かして聞いている。いやなやつ。
「過ぎたことだよ」とレティ先生が言うと、
「じゃあ、なかったということで」と息子が応じているのが、おかしかった。

「あのさ、ママ。ママは、僕に、みんなにどんなにお世話になっているか考えなさいって言ったけど、ママのほうこそ、ものすごくお世話になってきたんじゃないの」と息子は言った。
いいことに気づいたね。だからきみは、母がたくさんお世話になりましてありがとうございますって言わなきゃ、って言ったら、言っていた。
「母を助けてくれてありがとうございます」
するとレティ先生は言った。
「彼女も私を助けてる。彼女は私の娘のようなもので、きみは私の孫だから、またおいで」
ありがとうございます。息子はとてもいい経験ができた。
もう、ぼくのキャパシティをとっくに超えている、と言っていたが。

8月1日。

早朝4時半、ジュリアンが迎えに来てくれる。
渋滞の前に空港まで行ってしまいたい。それでも場所によっては、こんな早い時間でも混んでいるのだった。1時間で空港に到着。
午後、福岡について、外に出ると、信じられないほど暑い。

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パヤタス校近くのサリサリストア