星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

E判定

さすがにこれはまずいんじゃないの。
と、思った。
薬屋さんに、血圧とか骨とか心拍とか測れる器械がおいてあって、測ってみたところ。
「骨ウェーブ測定結果」というやつが、E判定。AからEまでの一番悪いやつ。
2年程前はD判定だった。気をつけないとねえ、と思って、思っただけだったなあ。
でもEはいやだなあ。

そんなわけで。
フィリピンでもらってきた小魚の干してスライスしたやつ食べている。好きじゃないけど牛乳も飲む。
がんばってみよう。

心拍のほうは、平均心拍数が50。「非常に低い」らしい。あと「疲労度が高い」。「血液循環がよくなく血管の老化が少し進行している」。
よくないなあ。

最近思うんだけど。
10代の頃、私は大人になった自分を想像できなかった。20歳を過ぎても、大人になった気はもちろんしなかった。30歳になったころは、むしろ人生は終わったように感じていて、人生は終わったのになぜまだ私は生きているんだろうと不思議だった。要するに、どうやって生きればいいのか、いつも全然わかんなかったのだ。
でもわかんないなりに、生きてみる気力はあった。40歳か50歳になったら、大人になってるかもしれないし、そうしたら少しは何かわかるのかもしれない、と思った。50歳からあとも人生が続くとは、考えられなかったけど。
で、わかったことは、
歳とったって、さっぱり大人にはなってないってことだ。子どもを産んでも、母親になった気はしないし。何かがわかった気もしない。でもまあ、なんとか生きてこれたのでよかったかな、と自分をゆるしているんだが。

はっきりとわかってしまった。
大人にならなくても、老化はする。

怠けないようにしよう。ちゃんと歩いたりちゃんと食べたりしよう。口を動かすのが面倒だとか思わずに、お魚食べよう。忘れないようにしなきゃ。
E判定なんだから。

 

ワンワンたち

 昨日の夕方、突然の家庭訪問。
何があったかというと、息子が相談事があって、担任に手紙を渡した、その件で、詳しく話を聞きたい、ということで。

K君が最近絡んでくるのが、たまらん、という悩みだった。大声で息子の名前を連呼しながら迫ってくるのだそうだ。ワンワンワンワンって? うん、そんな感じ。「ワンワン」と呼ぶことにしよう。春頃、息子に、陰キャ死ね、って言ってきたやつだ。
そのワンワンが、2年前の、あれは1年冬の息子の惨憺たる失恋劇を今さらほじくり返して、「Nのことは好きなのかー」みたいなことを大声で言うのらしかった。無視しても絡むし、答えればまた絡む。
どうしようかと友だちに相談したら「うるせーって言えば」っていうので「うるせー」って言ったら、ワンワンは、とりまきAに「うるせーって言われたよー」と泣きついてみせた。するとAは「いきがってんじゃねーよ、カス」と言ってきた。
そのAは、ラインのなりすましの容疑者だけど。


で、そのワンワンの最近の行動が、いろいろと突拍子もない悪ふざけもあって問題なので、先生たちが対応を相談していたところに、息子の手紙だったので、急ぎ取材に来た、ということだった。
ワンワンは遠目に見ている分には、面白かったりするんだけど、絡まれたらうんざり、絡まれた子たちは彼をきらいになる、という話を息子はしている。


担任が聞いているところの話では、1年のときに、息子がNに告白してふられた、ということだったが、いえいえ、先生それは違う、
息子は何にも言ってない、クラスの男子が勝手にNに、あいつのことどう思う、と話をして、聞かれたNは「タイプじゃない」と答えた。それでやめとけばよかったのに、その男子は、さらにしつこく聞くもんだから、警戒したNは、息子のことなんか大っ嫌いだし顔も見たくない、と言った。ほかにもずいぶん言ってくれたので「罵倒観音」というあだ名をつけたっけ、そういえば。男子はそれを、みんなに言いふらした上に、息子に向かっては早く告白しろよと煽るというわけわからない話で、からかったり悪ふざけしてくるようなやつもいて、それが数か月ほどは続いた。この1年ほどは収まっていたのに、今さらどこから聞いてきたのか、ワンワンがまた掘り返してきている、という次第なのだった。ここ掘れ、ワンワン。
「そりゃ災害じゃないか」と担任。「それはずいぶん、しんどかったね」と言ってもらったときの、息子のほっとした表情は、とてもよかった。

共感してもらうって、大事だなーと思った。誤った情報も訂正できたし。
で、なぜ、Nに告白してふられた話になってるのか。
「1年の担任に話したときの、ぼくの説明が悪かったかな」
たぶん、そうだな。


 

いつかどこかで

7月の豪雨に続いて、台風。つづいて今朝は、北海道で地震らしい。
家や街が壊れる、というの、子どものころはアニメのなかの景色だと思っていたような気がするが、いまは現実によくある景色だと感じるようになってきた。
こんなに壊れやすい世界だったかと、今さらに思うんだけど。
息子が言うには、「列車の旅をいろいろ考えるだろ、実現したり実現してなかったりするけど、考えたそのあとに、災害で不通になるというケースが3割ある」そうだ。
それは息子にとっての、壊れやすさの実感、なのだろう。
ところで、関西空港が海の上に浮かんでいることを、私は一昨日まで知らなかった。

パアラランの友人のみなさんは大丈夫でしょうか。フィリピンから安否心配のメールをもらっています。

☆☆


こないだ息子とアニメを見ていて、これ、いつかどこかで見たような話だなと思いながら見ていて、
いつもと同じように、ふたりで並んですわってみていたんだけど、ふと、こんなふうに誰かと肩組んですわっていたこと、昔もあったよなと思って、でも思い出せなくて、しばらく気になっていた。
しばーらくして、思い出した。
この写真。私2歳か3歳かな、弟と。
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部屋のなかに、父がつくったブランコは、私のためのものだったと思うんだけど、たいてい洗濯物に占領されていて、洗濯物の上にすわると、母に叱られましたね。

これだ。思い出したら、それで終わりの話だけど。
ちょうどこんなふうに、すわっていた。感覚が、同じなのだった。

 

無限ループ

夏休みはとっくに終わり、息子は運動会の練習がいやだと言いながら学校に行き、あれこれ学校の話題と一緒に帰ってくる。
夏休み明けの数学のテストの点数がすごい。上は100点から下は1けたまである、と言う。若者、30以下は追試らしい。(つまり、ぼくが何点でも問題ない、と言いたい)。それから「ここで問題です」ときた。A君の点数はB君の6倍でした。そしてそのB君の点数はC君の6倍でした。ABCそれぞれの点数は何点でしょう。

3年生はこれから1年かけて、それぞれ自由研究するらしく、テーマを考えるというのが、夏休みの課題のひとつだった。
そういえば、小学校のときに「トイレの歴史」とかを自分で調べていたのは、面白かったけど、いまの息子のテーマは、鉄道の話のほかにない。
ほかの人たちはどんなテーマなのかと聞いたら、「小児がん」とか「不登校」とか、なんかすごい。「絶滅危惧種」を絶滅から守る、というテーマもあったよという話をしていたら、
絶滅危惧種を守るには、人間が絶滅するのが話が早い、などとパパが口をはさむ。
そうだけど。

ドストエフスキーのもうひとつの地球の話みたいになるよね。ああ、あれね。
と私と息子は、「おかしな男の夢」という短編の話を思い出す。
自殺したいと思う男が、夢のなかで、もうひとつの地球に行く。そのもうひとつの地球はこの地球とは違っていて、心の美しい人が住んでいる。妬みも争いもない星なのだ。もうひとつの地球の美しさに触れて、目覚めた男は、自殺を思いとどまる。だが、男が訪れたために、もうひとつの地球では、妬みや争いが生まれてしまった、という話。

それで、息子が言ったのは、
「パヤタスは大丈夫かな」

つまり、自分が行ったせいで、あの土地を汚染してしまったのではないかと言うのだ。

たぶん、一週間の滞在は、なかなかしんどかったのだろう。まわりの思いやりと、うまくふるまえない自分に葛藤して、そのしんどさが自分の汚れを意識させる。ぼくはパヤタスの人々を、傷つけなかっただろうか?

「パヤタスは平気だよ」
きみみたいな子はたくさんいたからね。
パヤタスは、たくさん傷ついて、たくさん乗り越えてきているからね。

きみは、いい子だったよ。

無限ループなのだ。内なる暴力性というものはある。生きていれば、それでもって他者を傷つける。他者を傷つけないためには、他者に出会わないことだ。ひきこもるか。いっそ死ねばよい。でも自殺もまた、暴力なのだ。右に行く人が邪悪だからと言って、左に行く人に暴力性がない、というわけではない。生きても死んでも、右へ行っても左へ行っても、暴力の汚染から抜け出せない、どうかして自分を消去したいのにできない、という基本的な絶望を、どうすればいいのか、ということを、私はぐるぐるぐるぐる考え続けた。
この絶望にこたえが出せないのに、なぜ人が、何かを望んだり、たとえば家族をもったり、子どもを産んだりすることが、できるのか、なぜ、こわくないのか、私は不思議でしかたなかった。

男は、もうひとつの地球を滅ぼした。星ひとつ滅ぼすほど、人間は邪悪なんだけれども、たしかに。でも、星ひとつ滅ぼすほど邪悪でも、男が自殺を思いとどまった、ということは、絶対に大事なんだよ。
ということを、忘れないでいてくれるといいんだけどな。

昔、パヤタスに、一番最初に日本からの支援が来たあと、学校で教師たちが盗みをはじめた、ということがあった。支援は一時的なもので、すぐに底をついたのに、日本から支援がきたということはたくさんお金があるに違いない、でも私たちの給料は上がらない、それはレティ校長が独り占めしているのだと思った先生たちが、学校の備品やお金を盗みはじめた。
それまで、姉妹のように思って一緒に働いてきた人たちが不信で傷ついてしまって、教師もお金もなんにもなくなったところに、レティ先生がひとり残って学校を続けていた。子どもは200人来ていた。

善意だからといって、善い結果をもたらすとは限らない。いい気な善意が、信頼や思いやりや、尊いものを壊してしまった。こんなことなら、最初から関わらなければよかったのに。と思ったけれど、もともとの善意を責めるのも、違う気はした。
それでも日本で、支援をやめた人たちが、支援は彼らのためにならない、と言っていると耳にしたときは、怒りで頭がぼうっとしたんだけど。

だれかが、ごめんなさいを言わないと、せつない。
そういうなりゆきの、そういう場に居合わせてしまったので、支援グループをたちあげることになったし、毎年通い続けることになったんだけれども。

たぶん、この地球に生まれたということはよ、暴力や邪悪の遺伝子をもってるってことよ。暴力は伝染するし、自分だけ伝染されずにすむということもないんだけど、その無限ループを、いまいる場所で、生きてどうやって食い止めるかは、それぞれに課せられた宿題なんだと思うよ。

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帰省のとき、宇和島駅で久しぶりに見てなつかしかった「安全第一」の門。

スペシャル・チャイルド

23日。パアラランに送金。送金できた。
ほっとしています。緊急に助けてくださった友人のみなさま、ありがとうございます。
いつもいつもぎりぎりの自転車操業なのですが、こんななか30年近くも学校が続いているということが、なんかもう人間ってすごい、と思う。
でも、本当になんてスリリングな自転車操業
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パアラランに、息子にそっくりな男の子がいて、それはたぶん、息子を連れていかなければ気づかなかったかもしれない。机に向かっておとなしくすわっていられないとか、歌ったりお遊戯したりしない子はどこにでもいるので、何とも思わなかったかもしれない。アイヴァン(4歳)を、レティ先生はスペシャル・チャイルドと言った。特殊な子だと。そして、特殊な子は、ほんとにどこにでもいるのだ。
発達障害の概念は、ここまで及んでいないようだった。ノーマルかフール(知的遅れがあるかないか)、フールではなさそうなのにノーマルなふるまいをしないアイヴァンは、スペシャル。アイヴァンがスペシャルなのは、一人っ子で兄弟がいないからだろう、と話したりする。私の子どもが発達障害なら、アイヴァンもきっとそうである。それくらいそっくりだったのだが、発達障害という概念が、いまここで必要かどうか、については、考えてしまった。
なくてもいいのではないか。スペシャルな子どもには、スペシャルなケアがすこし必要で、それは、概念があるなしにかかわらず、それぞれの子どもたちに必要なスモールステップを、用意できればいいのだし、パアラランはそれができる。そして子どもはスモールステップをひとつずつのぼってゆけばよいだけなのだ。
で、余計なことは言わないことにした。

4歳の頃の息子が目の前にもどってきたみたいで、私はアイヴァンを見ていることがほんとに面白かった。そういえば、息子が幼稚園の頃、教室を脱走しても、歌を歌わなくても、私は全然心配しなかったな、と思った。
だって私たちの息子なので、歌ったり踊ったり体操したり、たくさんの子と長い時間一緒に過ごしたり、そんな難しいことができるとは、思わなかった。悩んでどうにかなることなら悩んでやってもいいが、どうにもならないことなので、いっさい悩まなかった。
それでも、スペシャルはスペシャルなりに、できることは増えていくので、それはもう楽しいばかりだったのだ。

まわりの子どもに「みんなとちがう」ことを責められ、ぶっ殺す、などと言われるようになってからが、彼の受難だった。障害はむしろ、「みんなとちがう」子どもを許容できず、ぶっ殺すなどと平気で口にできる側のほうにあるのだから、その子たちをどうにかしてほしいと、思ったけど。

アイヴァンそっくりだった私の息子は、3歳半のときに知能テストのようなものの数値が70で、知的な遅れがあるかないかの境目だと言われたが、6歳になったときには、100を超えていた。療育と幼稚園と小学校1年のときの先生にはほんとに感謝しているし、3~6歳の子どもの成長は奇跡を見ているようだった。
だからパアラランのような幼児教育の場はとても大切だと思うよ、という話を、私はレティ先生としたんだけれど、「え、ぼく、そうだったの?」と驚いたのは息子だった。
アイヴァンが自分とそっくりだということは、テレパシーでわかっても、自分の小さい頃のことは覚えていないらしい。たっぷりと話してやったら、他人事みたいに笑い転げてたけど。

ところで、あなたのスペシャルな子どもに、料理を教えたほうがいいよ、とレティ先生に言われたのだった。以前にはレティ先生の次女さんにも言われた。次女さんにはふたりの男の子がいるが、彼らは達者に料理する。あたりまえに家事をこなす。自立の最初はそこらへんから。

息子の、あまりの不器用さに包丁をもたせるのがこわくて、もうちょっと先だ、と思ったのが彼が小学生のときだが、そのあと受験で、そのまま忘れていた。帰ったら料理させよう、っと思って帰国したんだけど、夏休みの宿題あんまりたくさんで、時間なかったな。お米を研ぐのだけはしてもらった。

生まれてはじめて生きている鶏を見たと言われ、ぼくは小さい子との遊び方がわからないと言われ、息子以上に内向的で人間嫌いだった私の、小さかったころと比べてさえ、経験の幅のおそろしく狭いことに、改めて気づかされた旅でもあった。

夏休みが終わって、休み明けの試験も終わって、昨夜、うちのスペシャルな子どもが、パパを相手に、結局夜中2時ごろまで、話しつづけていたのは、マニラで見たあれこれの車のことだった。日本車がどんなにたくさん走っているか、どのメーカーのどんな車種が走っているか。ドライバーがどんな走り方をしているか。あとジプニーについても。
ぼくが見たジプニーはこんなふうにできていた。ハンドルがヒュンダイ、エンジンがフォード、フロントがジープまたは三菱。エンブレムがベンツで、ステッカーがISUZU
よくそんなに見てるな、と言ったら、そういうことは、向こうから目に飛び込んでくるそうだ。息子の撮った写真は、えんえんとえんえんと、車。

夏の旅 山口

旅、というほどでもない、いつもの帰省。17~19日まで。

その前、11日に、盆ダンスというイベントがあって、店出ししたんだけれど、「場違いだよ」と息子と言う通りで、売れなかったなあ。昼間の暑さはとんでもなかったし、私たち以外は還暦超えた人たちなので、手伝っていただくのも申し訳ない、夕方以降は私たち家族だけで、夕涼みの夜。


17日から山口。息子は、先輩から貨物列車の運行について情報を仕入れていたらしく(今度の災害でJRが不通になって貨物輸送がままならない、それで山口線、山陰線、伯備線を通るルートでの迂回貨物輸送のための訓練、だったかな、なんかそんな説明をしてくれたような)途中の駅で、列車を待つ。貨物のない貨物車が通る。

息子は、山口では毎夜、パソコンさわって遊んでいた。何していたかというと、マニラの夜の渋滞をカメラで撮っていたやつを、切ったりつないだりコメント入れたり、動画編集していた。そのなかに3時間いたことを思いだすと、思い出すだけで疲れそうだけど、5分か7分の動画で眺めるぶんには、面白い。
次の夜には、ジプニーに搭載されていたミュージックホーン(パラパラパラパラパラという音の出るやつ)の音と、昼間の街の様子の動画編集。
見ていたら、いろいろ思い出して楽しいが、はじめてのマニラは、息子には刺激が強すぎたらしく、いっぱいいっぱいだった、らしい。

18日は萩の道の駅にお昼ご飯を食べに行く。それから萩駅に行く。東萩駅は去年行ったけど、萩駅ははじめて。きれいでかわいらしい駅だった。なかの展示館も面白かった。観光列車○○のはなし号が通過する。私たちが乗ったのは冬の雨の日だったけど、今日みたいに天気のいい日なら、海もきれいだろうなあ、と思う。
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19日は、美祢の道の駅で、ごぼううどん食べた。食べたかったのだ、ごぼううどん。おいしかった。傍らの川にカモがいた。すこし日差しがやわらかくて、川で遊んでいる小さい子たち見てたら、夏らしいなと思う。これくらいがふつうの夏だと思う。

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息子、宇和島でじいちゃんにもらった小遣いは、私に取り上げられたが(といっても息子の定期代になるんだが)、その分、山口でおばあちゃんにもらって、まるくおさまる。

息子の学校は23日からはじまる。夏休みももう終わりなのだ。
夏休みの宿題は、終わっていない。
私も、する予定のあれこれ、なんにも終わってない、というか、とりかかってない。これからがんばる。

 

 

 

 

夏の旅 宇和島 2

7月9日。父を誘って愛南町までドライブ。紫電改の展示館があって、ロープウェー跡があるところまで。それからさらに、海のほう、外泊の石垣の里まで。

空も海も青いし、山は緑だし、正しい夏休みの色だ。夏休みの宿題の絵をかくと、青と緑の絵の具がいつも足りなくなった。

紫電改展示館は山の上にあって、リアス式海岸がきれいに見下ろせた。どうして、こんなに美しい古郷を出ていかなければならなかったか、せっかくの当たりくじを、ハズレくじと交換してしまったことに気づいた子どものような気持ちがする。思ってせんないことでした。

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紫電改。昭和54年に豊後水道から引き揚げられたのが、展示されている。初めて見る。近くには、海の上を渡るロープウェー跡がある。(昔、一時期は運転していたこともあったのか。南予レクリエーションなんとかの構想など、私が郷里を離れてからのことなので、なんにも知らないのだった)

それから展望台がある。展望台は運転していて、360度回転しながら、リアス式海岸を一望できる。遠く九州まで見えた。これは素晴らしかった。春は眼下の山が、ソメイヨシノと山桜で美しいそうです。

展望台付近に、咲いているのは、沖縄デイゴだと職員さんが教えてくれた。

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 それから、外泊の石垣の里を目指して走る。父が、昔このあたりで、バスを乗り間違えたことに気づいて、降りたあと長い道を歩いたとか、まだ道が舗装されてなかったころ、自転車で走ったとか、昔を思い出してなつかしそうだった。
海辺にお墓。

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石垣の里は、いつ頃から知られるようになったんだろう。私ははじめて来る。映像で見た記憶で印象に残っているのは、70年代かな、の映画『旅の記憶』の一場面。石垣の間の道を、葬儀の列が歩いていく場面だった、と思う。あの頃の南予の風景を堪能させてくれる映画。主題歌は、吉田拓郎の「私は今日まで生きてみました♪」だった。
父は、10年ぶりか20年ぶりかで来たらしいのだが、いや、ここじゃない、こことは別に、もっと違う石垣の部落があるはずだ、と言う。いや、ここでいいと思うよ。たぶん、印象が違っているのだろう。歩いてみると、空き地になっているところも多い。

 

 

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いい思い出ができたと、父が言う。ひとりでは出かけることもなさそうだから、誘ってよかったかな。疲れさせるかと思ったけど、暑いなか、私たちより元気そうだった。父を家まで送って、それから駅に向かう。

予土線予讃線も不通だが、終着駅には列車が止まっているからそれを見に行くって。
予土線のトロッコとホビー列車(新幹線のはりぼて)と予讃線の「みきゃん」がいた。と、そこに、不通で走っていないはずの線路を、アンパンマン(特急列車)がやってくる。息子が大喜び。普段あり得ない編成で走っている。たぶん翌日から予土線が復旧するので、その試運転なのだろう、と言う。

そのあと、兄や叔父たちと焼き肉食べに行く。そのあと、私は高校時代の友だちとファミレスでお茶。

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その翌日の10日。早朝から、息子はひとりで起きてホテルを出て、復旧した予土線の始発を撮りに行った。始発は新幹線だったらしい。
兄と朝ごはん食べて、父に挨拶して、叔父さんたちからお土産もらって(釣った魚の一夜干しとじゃこ天)帰路につく。

四国を出てしまなみ海道渡るまでは順調だったんだけど、山陽道が、事後で渋滞、それで高速降りると一般道もまた渋滞。豪雨災害の傷跡が、まだ生々しく残る道を、のろのろと帰った。