風の吹く日に

6日、台風の風で電車が止まってしまった。改札に行くと、駅員さんが休止のお知らせをボードに書いているところだった。バス乗り場へ。バスと、止まっていない電車を乗り継いで、会場まで。息子たちのエレクトーンアンサンブルの発表会。
3歳の頃から一緒に鍵盤を叩いてきた子たちが、年に一度いまも集まって、演奏している。4人とも淡々としているけれど、幸せなことなんじゃないかな。
今年は、We are confidence manという曲らしい。

3日の夜はアマウラ・ビエイラ氏のピアノリサイタルを聴きに行った。息子と。学生2千円だったので、それなら連れていってやれるかと思って。非常に聞きやすくて、長時間聞いても疲れない音だねと言ったら、これは凄いよと息子は言っていたので、連れていったかいはあったかも。

ひとりだったら行かない。息子がいてくれるので経験できる、ということがたくさんある。すごいことだし、ありがたいことだなと思う。きみがいてくれるので面白い。

首のあたり黒くなっているのは、日に焼けたのかと思っていたら、なんか臭ってきて、問いただしたら、毎日風呂に入っているけど、体を洗うのは怠けていた、と判明。「ちゃんと洗剤で磨いてね」と言ったら、「洗剤?」と聞き返された。…石鹸。
で、風呂から出てきたら、首、白くなっていた。


すっかり秋。庭に出ると金木犀が匂う。ある朝、柿をたくさんもらい、夕方には栗をもらう。子どもの頃は、春も秋も永遠ぐらい長かったと思うけど、いまは一瞬で季節が過ぎる感じ。
畑がまた夏の間に荒地と化しているので、晴れた日は草ひき。町内会の大掃除も近いし、庭もジャングルになってるし、怠けずに働かなければ。

 

 

 

 

 

半分、死後

青でできているとおもう空や海のように半分くらいはわたしも (野樹かずみ)


という短歌を数年前に書いていたから、「半分、青い」というタイトルは気になって、見ていた。朝ドラ。最後まで見て、なんというか宿題が終わったみたいな気分。なんか疲れた。いや、楽しんだんだけど。

ヒロイン役の女優が18歳というので驚いた。それで40歳まで演じてしまう。

私、18歳のときは、20歳からあとも生きてるなんて想像もつかなかったし、20歳を越えても、30歳や40歳の自分は想像もできない死後のような感じがした。母が52歳で亡くなっているので、人生はだいたいそのくらいの長さだと思っていたし(でもとても長く思えた)、そこまではなんとか生きてみよう、ということだけを思ってきて、めでたく目標達成しているのだが。
さて、このあとがまた、さっぱりわからん。私の母にとっては、この年齢はもう死後なので、それを考えていると、自分がいま死後を生きているような感じがして、死後のはずなのに生きて、たとえば子どもの学校の懇談会なんかに出席しているというのが、そしてその帰りに中学生の群れに紛れてバスに乗って、窓から夕焼けを見ているというのが、相当に贅沢なことに思えたりする。

そしてその贅沢を享受するために、何はともあれ、生命力が必要なのだった。たとえば、人に会うことも、ありがとうを言うのも、ごめんなさいを言うのも、手紙ひとつ書くのも、電話ひとつかけるのも、生命力がいる。

生きているときの、なんでもない仕草のひとつひとつがどんなに大変で、愛おしいか。ドラマで、わこさんが死んでゆく場面で、母が死んでゆくときのこととか思い出したりしたんだけど。

生きている私の傍らに、死んでいる母がいっしょにいるようで、半分、死後。そう思うと、死んでゆく母を、責めることができないように、私はもう、私を責めなくてもいいんじゃないかな、いつまでも、宿題ができなくて、あれもできないこれもできないと、叱られるのを怖がっている子どものような気持ちでいなくてもいいんじゃないかな、と思ったりした。

すこしの生命力でありがとうが言えて、またすこしの生命力で笑うことができて、それを大切に思うことが、死んでゆく母に対してできればよかったし、これから死んでゆく、いま生きている私たちに対して、できればいいなと。

 

希望

明日から定期考査なんだが。広島カープのせいで、まあそうでなくてもだが、落ち着かない息子だ。パパが音を消して見ていると、足音しのばせて後ろに立っているとか、私が台所からちょっと離れると、食器棚の引き出しにおいてあるiPadをのぞきにくるとか。ひっきりなしに冷凍庫から氷を出してかじっているとか。机に向かって5分とすわってないだろうっていう。学校で50分すわっていられるというのが信じられないくらいだ。

定期考査なので。日頃学校に置きっぱなしの教科書も持って帰る。(英語の教科書は持って帰るのを忘れている…) 国語の範囲が、魯迅の「故郷」と芭蕉の「奥の細道」で、なつかしく読んだことでしたが、ワークブック見ていたら、
「故郷」のテーマをめぐって、故郷への絶望、というような内容を選んでいる。
それもそうだけど、それならばよ、最後に出てくる、あの美しいフレーズは、なんのためでしょう。
 「まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

幼馴染みのルントウとの関係の変容は、封建社会身分制度のもたらす社会の絶望的な面を語っているのだが、それがなぜ、最後に突然、「希望」についての話になるのか、よくわからないふうだった。
そういえば、私も中学生で読んだとき、よくわからない話だった、と思う。教科書に載っていただけで授業ではやらなかった記憶だけど。魯迅で痺れたのは、大学生になって読んだ「狂人日記」だったが、たぶん狂人の妄想の話が面白かったのだ。

目の前に絶望がある。でも、未来を生きる子どもたちがいる。それならばどうしても、希望が要るのだ。希望がないなら、希望をつくらなければいけない。
という思いは、今でこそ私にも自然なものだけれど、
でも思えば、子どもにとって、子どもは、未来などではなく、相当にうんざりな現在、現実そのものなのだった。

そういえば、息子がいろいろ絡まれて、困って先生に相談したワンワンたちの件。息子は、それはしんどかったね、と先生に共感してもらったことで救われていたからいいんだが。事情をきかれたワンワンは「仲良くなりたくて」と言ったらしい、「カス」と暴言を投げつけてきたAは、去年息子に話しかけたときに反応が薄かったのが気に入らなかった、というのがずっとあって、それで思わず言ってしまったらしい。それぞれ注意されたらしい。
そこはもう、個性の違いなので、どうしておれの思うように反応しないんだと言われても困る話だ。コミュニケーションの流儀が違うのだろうが、無駄に傷つけたり傷ついたりしないことを考えたいよね、というところだけど。

ワンワンはでもその後も、学校に来ることと謹慎とを繰り返しているらしいんだけど、ふるまい方がわからないというふうなんじゃないだろうか。それで、踏んではいけないところばかりを踏んでしまう。あるいは自分で自分を踏み外してしまう。(私はすこし身に覚えがある)。

それでも、道は未来へつづいていく。

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青春18きっぷの広告。……雪国というものを初めて見た。
技術の授業でつくったらしい。雪国って、近くの駅ですけど、これ。

 

 



 

聖地巡礼

もう9年目になるのか。エレクトーンのアンサンブルの発表会が近い。幼稚園の頃から一緒に習っていた子たち4人のグループで、今年も参加する。今は個人レッスンだし学校も違うので、普段は全然会わないが、久しぶりに一緒に練習してきた息子、
「10か月ぶりなのに、ちゃんと居場所がある感じでうれしい」と言っていた。4人の空気感が、とてもおだやかでいい。
Yくんたちのグループにも久しぶりに会った。中3のNちゃんと高1のTちゃんもいて、おしゃべりしていた。進路の話とか。学校に行けていないYくんは、新しくできた通信制の高校に行くつもり。Nちゃんは行ける高校ない、と明るく言ってるが、どこかに行くでしょう。Tちゃんは、大学で心理学を勉強したい。それで困難を抱えた子たちに寄り添ってあげられる人になりたい。「そう思うようになったのは、きみの影響が大きいよ」とYくんに言っていた。
いい光景だなと思う。

居場所があるといいですね、自分の居場所があれば、難しいことがあっても、がんばっていけると思いますよ、
と、小6のとき、最後に療育に行ったときに言われたことだけど、いまのところ、息子は学校に居場所があるようで、しかも、楽しそうだ。
同級生とのちょっとしたトラブルも余興にみえるほど、余裕がある。

居場所があるというのは大事で、根っこのところの自己肯定感みたいなのがゆらぐと、障害特性が良くないほうに肥大して、無駄に傷ついて傷つけてぼろぼろになる、
のは私も経験済みで、それが一番心配。
自己肯定感がゆるがなければ、特性も個性に落とし込める。

多かれ少なかれ、人生はいろいろ失敗する。でもどうせ失敗するなら、自分の考えで自分の流儀で失敗したほうがいい。気づきもあるし、反省もしやすいし、立ち直りやすい。他人のアドバイスにしたがって失敗したら、傷が深いばかりで立ち直りづらい。他人は責任とらないし。

という話を息子にはすこしする。

定期考査の範囲が発表になってて、数学も英語も、はや高校の内容に入っているし、私はもうついていけないが、国語は芭蕉奥の細道があって、なつかしかった。
私、まだ暗唱できる。月日は百代の過客にして…。
歌枕、の説明は、聖地巡礼、でいいと思うんだけど、

息子は、奥の細道の旅を、列車で辿るとすると、どの路線をどう乗り継いで、何日かかる旅になるかということを、地図帳と時刻表でえんえん調べていた。
芭蕉とは別の、違う聖地が見えている、と思う。
聖地巡礼したいらしい。

 

沈黙の春の子どもたち

貼っておく。

発達障害の原因としての環境化学物質

https://i.kawasaki-m.ac.jp/jsce/jjce23_1_1.pdf

発達障害の急増、という言葉にまず驚いた。増えているのか。その原因は遺伝ではなく環境化学物質によるという内容。農薬の使用量の多い国で発達障害が急増している。韓国、日本、アメリカ…。
レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を思い出す。沈黙の春はずっと続いていて、私たちは沈黙の春の子どもたち、ということになるんだろうか。

遺伝だと思っていた。息子が自閉スペクトラムの診断を受けたとき、その診断内容は、親の私たちにこそあてはまったから。このふたりの親から生まれたら、こうなるしかないだろうという自然さだったので、それは遺伝なのだと思う、やはり。

では私たちについてはどうか、というと、なんともいえない感じがしてくる。
私も、私の弟も発達障害だと思う。では、その親はどうかというと、これが微妙だ。私たちは、これがふつうの親、と受け止めたが、たぶん、ふつうじゃなかったかもしれない。


母ははやくに死んでいるが、母と世間との感覚のずれ、は子ども心に感じていた、と思う。そのずれ、に母が傷つくとき、自分もともすると母を傷つける側にまわってしまうのだったが、そういうとき、母をせつなくて、私は世間と自分をきらいだった。

父は、まじめに仕事をするお父さんだったのだが、どっかヘンではある。職人は頑固だから、という言い方があるから、まあそういうことにしておいてもいいが、何か心のクセのようなものがある。叔父たちもそれぞれにヘンである。
親たちは親たち世代としてそれぞれにヘンなので、それが発達障害によるのか、戦争のせいなのか、教育を受けられなかったせいなのか、個性なのか、よくわからない。
もう70代80代だから、どうでもいいというか、どうにもならないんだけど。

子どもの教育については、たぶんお手上げ状態だった。仕方ないのだ。父も母も小学校しか出ていない、ふたりが子どものころは戦争だったし貧乏だったし。
私も弟も、親から見れば、どうしていいかわからない子どもだったと思うのだが、お手上げながら、母が母なりに心を砕いてくれたことは、よくわかっていた。

パパのほうは、義父母さんとも高学歴の一族だけど、「発達障害の子どもへの教育のありかたとしては、まったく適切ではなかった」らしい。責めようもないことだけど。


私たちと息子との関係では、遺伝は疑えない、と思う。だから心配であり、同時に安心もしている。互いにわかりやすいので、家族の関係にストレスがない。仲間意識もある。だから、そうか遺伝か、と思って納得、だったのだが、

私たちと親たちの関係で、互いのわかりあえなさ、異文化交流の難しさみたいのは、時代の違いなのか、発達障害のあるなしの違いによるのか、個性によるのか、よくわからないところだ。

化学物質が原因と言われれば、それはそれで納得できる。父たちが子どもの頃には、きれいだったという川は、腐敗臭のするどぶ川だったし、学校は田んぼの中にあったが、農薬散布の白い煙がただよってくるなかを歩いたりしていた。私は小学校4年生ころまで、ずっとぜんそくだった。


とすると、戦後、高度経済成長の私たちの世代から、発達障害は増えていて、それが親になって、子どもたち世代にいよいよ顕著にあらわれてきているということかもしれない。

親が発達障害でなくても、子どもが発達障害であるということも、あるわけだ。化学物質が原因なら、増え続けるばかりだと思う。
もう、障害という言葉が不要に思えるくらい、あたりまえに、存在していると思うもん。クラスに2人や3人はいるし。不登校もあるし。

思い返せば、子どもの頃から、発達障害の子は、まわりにけっこういた。悩んだり泣いたりしているお母さんたちもたくさん見てきた。それがいまもずっと続いている、しかも増えているらしい、ということなのだ。

もとより無傷な命はないというか、壊れたり壊れかかったりしているものが、家族、のようなものをつくっているというか、でもそれでも、懲りずに命をつないでゆくし、

こんなに危うげでありながら、私たちは幸福にしかならない、と思っている。


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ピアノの調律。このときしか見る機会がないけど、羊と鋼の森は、造形的にも美しいなあと思う。学校から帰ってきた息子、音がきれいだと喜んで弾いていた。
線路はつづくよ、どこまでも…♪

 

体育祭

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土曜日が雨だったので、昨日の月曜日、体育祭。運動場も広いが、空も広い。風も吹いて涼しくて、半日過ごすのも気持ちよかった。
いつ頃からか運動会の時期になると、「明日は地獄の運動会♪」とラデツキー行進曲の旋律で口ずさんでいる息子だが、それは罰が当たるというもんだろう、と私は思う。

だって、息子の学校の運動会、楽だよ。ひとことで言えばたんたんとしている。
1、2年はソーランがあるが、それも部活の時間に先輩から習います、みたいなことだし、3年以上は団体演技はない。
応援合戦もない。有志の応援団十数人が演武する。リレーは得意な人たちが走るし。
さらに、入場行進もない。
団体別の出し物とか、パネル製作とかもないので、役員でなければ、前日までの準備もない。
で、息子が何してたかっていったら、教室の椅子を運動場に出してすわって、準備体操して、学年を超えた種目で、6年生のかわいいお姉さんとボールもって走って、騎馬戦で、後ろ脚になって、1年生乗せて走って惨敗して、クラス対抗の種目で、10人のむかでで100メートル走って、1年から6年まで全員参加のフォークダンスやって、

以上である。

超絶運動音痴で、集団行動嫌いの、息子の表情の明るいこと。小学校のころの運動会の日の、実にいやそうな顔で応援合戦してたり、踊ったり組体操したり走ったりしてたときとは、別人のような明るさで、
きみみたいな子にとっては、理想的なんじゃないの。

小学校の最初の運動会でピストルの音にびっくりして以来、運動会が嫌い、中学の運動会も高校の運動会も、心底うんざり、同級生たちが熱中するほどに、どんどん孤独でしんどくなっていた記憶しかない私としては、入場行進もない、この学校の運動会って、とてもいいと思うよ。

E判定

さすがにこれはまずいんじゃないの。
と、思った。
薬屋さんに、血圧とか骨とか心拍とか測れる器械がおいてあって、測ってみたところ。
「骨ウェーブ測定結果」というやつが、E判定。AからEまでの一番悪いやつ。
2年程前はD判定だった。気をつけないとねえ、と思って、思っただけだったなあ。
でもEはいやだなあ。

そんなわけで。
フィリピンでもらってきた小魚の干してスライスしたやつ食べている。好きじゃないけど牛乳も飲む。
がんばってみよう。

心拍のほうは、平均心拍数が50。「非常に低い」らしい。あと「疲労度が高い」。「血液循環がよくなく血管の老化が少し進行している」。
よくないなあ。

最近思うんだけど。
10代の頃、私は大人になった自分を想像できなかった。20歳を過ぎても、大人になった気はもちろんしなかった。30歳になったころは、むしろ人生は終わったように感じていて、人生は終わったのになぜまだ私は生きているんだろうと不思議だった。要するに、どうやって生きればいいのか、いつも全然わかんなかったのだ。
でもわかんないなりに、生きてみる気力はあった。40歳か50歳になったら、大人になってるかもしれないし、そうしたら少しは何かわかるのかもしれない、と思った。50歳からあとも人生が続くとは、考えられなかったけど。
で、わかったことは、
歳とったって、さっぱり大人にはなってないってことだ。子どもを産んでも、母親になった気はしないし。何かがわかった気もしない。でもまあ、なんとか生きてこれたのでよかったかな、と自分をゆるしているんだが。

はっきりとわかってしまった。
大人にならなくても、老化はする。

怠けないようにしよう。ちゃんと歩いたりちゃんと食べたりしよう。口を動かすのが面倒だとか思わずに、お魚食べよう。忘れないようにしなきゃ。
E判定なんだから。