春の食卓

この季節恒例のいちごパフェ丼。
毎日畑でいちご狩り。97個、102個ときて、今日116個。ほぼ、ほったらかしだし、草引きも間に合わないし、いいかげんなものなのに、家族が楽しめるくらいには、じゅうぶん採れるのがすばらしい。夏のアイス用と冬のケーキ用に冷凍して、残った小さいのはジュースにする。毎日いちごジュース。

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畑やら家のまわりやら、いろいろあって、あれも食べられる、これも食べられる、と思わず摘んでしまって、自分が忙しい。あく抜きしたりとかの手間がかかるし。
昨日は家の裏のツワブキを料理した。子どもの頃、この季節は、こんなものばかり食べていた。ツワブキの煮たのが、鍋ごとドン! ワラビの卵とじが鍋ごとドン! みたいな春の食卓。
祖母が電話をかけてくるときって、どこそこにワラビが生えとったとか、ヨモギを摘んでおけとか、クジュナ(臭木菜)を炊いたから取りに来いとか、そんな話だった。クジュナ食べたいな。クジュナ見当たらないので、畑のセロリを梅肉入り佃煮にした。
息子、ツワブキもワラビも、好みじゃないらしい。

なので今日は、息子のリクエストで、柿の葉寿司つくった。畑の柿の葉を摘むところから。しめ鯖14個、サーモン16個。私がつくったにしては上出来。手間かかったのに、食べるのは一瞬で、奪い合うように消えた。

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残った柿の葉は洗って干して、柿の葉茶。ヨモギとのブレンドが美味、と思う。

春の野山と食卓が、そのままつながっているような暮らし方のなかで、自分が育ってきたことは、幸せなことだったかなと思う。次世代に伝えられるほどには守れなかった幸せでもある。

福島の原発事故で胸が痛んだことの一つは、そのような暮らしのあり方が、突然、強制的に、断ち切られてしまうことだった。 

 

母の日?

母の日だったらしい。わが家は誰も思い出しもしなかった。
フィリピンの女の子たちから、happy mother's day のメッセージが届いて(ああ、しあわせだな)はじめて思い出す。

昨日、母の日らしいよ、と息子に言ったら、ゲームから顔もあげずに「ほう」と言ったきりだった。「それだけ?」「そうは言われても、どうすればいいのかと…」とやはり画面から顔をあげない。いえ、どうしてほしいわけでもありませんが。
母の日らしいよ、とパパに言ってみたら、「うちは毎日が母の日だろう」と返ってきた。ものは言いよう。そうですね。毎日が父の日で、毎日が子どもの日ですね。
おかげで楽しい人生ですよ。

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畑のイチゴ、昨日40個。今日93個。毎日イチゴジュース、と練乳かけ。明日生クリームとアイスクリーム買ってこよう。

柿の若葉もつやつやきれいで、柿の葉茶とよもぎ茶作った。いい匂いのお茶だ。柿の葉があるなら、柿の葉寿司をつくって、と息子が言う。魚が安ければ、考えてもよい。

「柿の木」という地名はたぶんどこにでもあると思うんだけど、私の田舎にもあって、子どもの私にとってはまず、バスの行先表示の地名だった。どこか遠いところの地名、というほかに知らなかったが、遠いといっても、市内の話じゃあったのだ。
夏休みの自由研究で、地名について調べたことがあった。地元の何の資料を見たんだか。それによると、柿の木は、もとは海だったところで「牡蠣」が採れたのらしい。ふうんと思い、海だか陸だかわからないようなぼんやりしたなかに、柿の木が一本立っていて、そこが、この世の果てのバスの停留所、だった、私の頭のなかでは。

柿の木。この世の果ての一本の柿の木。

ところがあるとき、実際に、バスの終点の柿の木を訪れたのだった。全然遠くなかった。初夏、山を覆うように、柿の木が植えられていたような気がする。蝋引きしたような葉っぱの照り返しが、青空の下、気味悪いぐらい、山ぜんぶが、てかてか光って眩しくて、圧倒的だった。

さて私の、この世の果ての畑の柿の木、まだ実がなったことはない。

ままごと

連休は長すぎた。
息子は、「学校にいきたくないわけじゃないけど、ずっとひきこもっていたいよ」と言いながら、行ったけど。
私はパスポートが切れているので、申請に行ったり、土曜参観とか進路のなんとかで、学校に行ったり、あとはとにかく天気がいいので、昼間は畑。
イチゴ、4個8個7個、ときて、昨日23個、今日37個。楽しい季節になった。

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5月の弁当は、畑のおかげさま。ちしゃが育ち、ラデッシュとイチゴも採れて、パセリは去年の種から勝手に生えているし、アスパラガスとかニンニクの芽とか。
ハハコグサの天ぷらも投入してみたら食べていた。

地面からあれこれちぎっては、弁当箱に入れるという作業は、あれですね、遠い昔のおままごとみたい。
毎日完食。弁当箱にはイチゴのへたしか残ってない。

アイたちの学校

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連休明け、上映の最終日にやっと行けた。

監督の高さんは、7年前にパアラランに来てくださいました。ところがところが、その時、連日の台風で学校休み、一週間ずっと休み……いまは思い出して笑えますが、あのときは、せっかく来てもらったのに子どもたちの撮影ができない、申し訳ない気持ちでいっぱい、天気は私のせいじゃないけど、いまでも、ごめんなさいを言いたいわ。
でも高さんはあきらめず、私たちは、無料で、パアラランの紹介ビデオつくってもらったのでした。その節は本当にありがとうございました。

映画、見ることができてよかったです。高さんらしい誠実な画面のつくりかただなと思いました。学校に愛情が息づいていること、守りたい可憐な何かがたしかにあることに、共感するところから、考えはじめたいし、そのような場を開くための映画なのだなと思います。機会あればぜひ。
釜山の映画祭でも上映されるそうで、高さんと映画の活躍、たいへんうれしいです。

 

 

連休の終わり

どこにも行けない何にもできない連休だったので、絵を描いた。
なんか物足りないけど、「これでいい、へんなことして台無しにしないでほしい」とモデルが言うので、こんなところで。
絵の終わりってわかんない。連休が終わるので終わることにする。

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終わりって、そんなふうかもなあ。永遠の未完成といえばかっこいいが、きっと、とても中途半端に、わりとぶざまに終わるしかできない人生でしょう。
パレットに残った絵具の片づけがてらにもう一枚。
息子3歳か4歳くらいのときの落書きが出てきたのが楽しかったので、写してみた。
「この子かわいいよね」と言ったら「ええっー!?」と息子は言った。
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連休最後の夜、宿題終わったの? 明日から学校だけど、時間割は? とか、高校生相手に声かけしなければいけないわけだ。勉強してるふりしながら、野球中継聴いてたり、ゲームやってたり、電車の動画眺めてたりするよねえ、もともとかわいい子だったことを忘れないために描いたんだよっ。

畑のイチゴ、季節最初の4個収穫。

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気づけば5月

気づけば5月。連休はぎっくり腰とともにはじまった。ぎっくり腰とともに終わるだろう。昨日までおうちでじっとしていました。2日ほど雨降ったけれども、昨日今日いい天気で。
テレビも見ないから、忘れてしまいそうだったけれど、令和になったんですね。

昭和が終わるときに、寒くて雨ばかりだった記憶なんだけれども、あれは冬だったからかな。
山中智恵子の短歌の印象が、記憶に滑り込んでいるかもしれない。

  雨師(うし)として祀り棄てなむ葬り日のすめらみことに氷雨降りたり
                   「夢之記」

とにかく30年は過ぎたのだ。あの氷雨のなかから、もう一度やりなおせるならいいなと思うけど、そんなことはできない相談だし、いろいろ悔しみもあるけど、子どもが生まれてからの後半15年間は、文句なく楽しかった。まあ上出来でしょう。

ひきこもってる間に、庭の都忘れが咲いた。すずらんやつつじも。

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連休、帰省もしないでいたら、義父母さんが遊びにきた。一緒にお寿司を食べに行く。それからケーキを食べに行く。買い物をして帰る。息子はお小遣いをもらう。ピアノを弾く。
という午後でしたが、途中で、おじいちゃんおばあちゃんがいないときに、息子が「疲れたよ」とぼやいた。「ここにいる5人、みんなコミュ障でしょう。ぼくはもうどうすればいいか」と言うのだった。気持ちはわかる。たしかにたしかに。
するとパパが言った。「コミュ障でない人間なんかいるのか?」
そこまで開き直るか、と思ったが、それもその通りだと、笑った。

つまり、きみが感じているのはこういうことだよね、ママとぼくとふたりなら、共鳴できるところをあわせてうまくやれる。パパとふたりでもうまくやれる。3人になると、ときどきどっかがはずれるけど、それは慣れてるし、それでもめんどくさいけど、
そこにさらに、うまくいっているような、ぎくしゃくしているような、2人が加わると、なんだかもう、わけがわからない、どこにあわせてもどこかがずれる、ずれながら一緒にいるのがたいへんだと、きみは言いたい。
そうそう、とうなずく。

でも、息子は、黙って食べてるだけなんだよね、でも、おじいちゃんのおばあちゃんの関心の的は孫なので、快くちょうどよい感じに、孫の話題を提供しなければならない役回りの私のほうが、大変だと思うんだけど、
まあ、でも、適当なもんですよ。
大人たち4人が、このすばらしいぎくしゃくを耐えられるのは、ひとえに、きみへの愛情を、共有しているから、なんですけどね。

おかげで、すこしだけ連休らしかった。

ぎっくり腰、日に日に楽になっていく感じがよい。もう、短い時間なら普通に歩けるし、畑の水やりもした。ラディッシュ実った。いちごは、明日かあさってあたり、最初のが食べられるだろう。

雨の連休

雨。向かいの森の新緑がきれいだ。もう藤の花が咲いている。
畑も、雨でいっせいに緑が増している。レタスが育ち、ミニトマトが花をつけ、枝豆も芽を出した。いちばん元気なのは、雑草だが。
台所のすみで芽を出していたジャガイモを埋めてくる。

こんなに長いのに、どこにも行かない連休。
息子が友だちに借りてきているラノベを、取り上げて読んでいる。なるほど、こういう話かー。こういう作り方かー。どっかで読んだような話だなと、たちまち飽きた。
少年少女の物語は好きなんだけど。
14歳や15歳のころに読んだ本は忘れがたい。コクトーの「恐るべき子どもたち」もデュ・ガールの「チボー家の人々」も。リルケもヘッセも。
いい年ごろだよね。本読まないのはもったいないよね。
ラノベもいいけど。食い足りなくないか?
と思って「罪と罰」勧めたんだが、しんどくてめんどくさくて、かんべんしてほしいらしい。えー、最高だよ、と思わず読み聞かせなんかしてしまったが、
いや、読み聞かせするには長すぎる…。
ま、自分の好きな本は自分で見つけるべきだよね。

お隣から蕨もらって、つづいて筍もらって、せっせとあく抜き、瓶詰、冷凍した。
昔わたしは、霞を食べて生きていける人になりたいと思っていた。十代後半ころ。わりと本気で思っていた。漢文に出てくる誰だっけ、山菜ばかり食べて死んだ義人の話もあることだし。よく摂食障害にならなかったことだ。(いや、寸前だったかもしれないが)。
山菜を食べる、は霞を食べるに、やや近い、ような気がして楽しい。
蕨と筍、炊き合わせた。