考えていたこと。1、他化自在天と「イーリアス 力の詩編」

ここしばらく考えていたこと。長くなりそうなので、少しずつ書いてみます。

1、他化自在天と「イーリアス 力の詩編

 他化自在天(たけじざいてん)。天上界の六欲天に住し、第六天の魔王とも呼ばれる。第六天の魔王は、仏道修行を妨げる、と言われる。 他化自在天という言葉のイメージは鮮烈。他者を自在に動かす欲望と快楽、とひとまず理解する。このイメージを借りて考えたい。
 西洋思想では、おそらく、シモーヌ・ヴェイユはそれを「力」と呼んだ。

 シモーヌ・ヴェイユの『イーリアス 力の詩篇』はとても美しい論考だ。

 「『イーリアス』の真の主人公、真の主題、その中心は、力である。人間たちに使われる力、人間たちを服従させる力、それを前にすると人間たちの肉がちぢみ上がる、あの力だ。そこに現われる人間の魂の姿は、たえず力との関係において変形され、みずからは使用しているつもりの力にひきずられ、盲目にされ、自分の受ける力の束縛に屈した姿である。」

「力とは誰にまれそれに服従する者をものとする。極限まで作用する場合、力は人間を文字通りの意味でものにしてしまう。力は人間を屍にするのだから。誰かがいたのに、一瞬ののちには、誰もいないのだ。これこそ『イーリアス』が倦むことなく私たちに提示する光景である。」

「真に力を所有するものは誰もいないのである。人間たちは、『イーリアス』のなかでは、一方には敗者、奴隷、嘆願者、他方には勝者、首長というように、区分されてはいない。そこにはどこかで力に屈することを強いられないような人間は、ただの一人も見つからない。」

「このように暴力はおのれの手の触れる人々をおし潰す。ついにはそれを忍ぶ者同様それを扱う者にとっても、自分の外部に現われるに至る。そのとき、運命のもとでは死刑執行人も犠牲者も等しく無垢であり、勝者も敗者も同一の悲惨のなかで兄弟だ、という理念が生まれる。勝者が敗者にとってそうであるように、敗者も勝者にとって不幸の原因なのである。」

「力を中庸に用いることだけが、この歯車装置から逃れさせてくれるかもしれないのだが、それは人力を越えた、弱さのなかにいながら変わらぬ尊厳を保つのと同じくらい稀有な、精神の力を要求するだろう。」 (シモーヌ・ヴェイユ著作集)

 力への欲望を、人間は持つ。権力の魔性というものも、他者を自在に動かせることの、欲望と快楽に潜むと思う。  
 私たちには力がない、と言う。でも、だから無垢だということにはならない。絶対に違う。現実の人生で、他者を自在に動かせるとか、自分たちの思うように他者が動いてくれる、ということはなかなかないのだが、それゆえ地上は、他者が自分の思うように動かないことへの、不満と恨みと憎しみと抗議とで、満ち満ちている。他者が思い通りにならないことに苦しみ、不幸でおかしくなりそうな人間が、ひしめいている。
 それもまた力への欲望、裏返しの他化自在天の所為だと思うのだ。
 他化自在天は、いたるところに滑り込む。加害者の暴力にも、被害者の、そもそもは人権の叫びであっただろう声にさえ。平和を求める声にも。どんな正義にもどんな善意にも滑り込む。
 そしてそのことに、私たちはとても無自覚で、注意深くない。正義や善意の側にあると思っているときはとくに。「地獄への道は、善意で敷き詰められている」という言葉もあるのに。そして人はいつも人それぞれの正しさの側にいて、そうでない側にいる人たちを憎む。

 「暴力は伝染する」とヴェイユが言ったのは、真実だ。被害者は加害者になる。被害者も加害者も、暴力に触れ、暴力に引きずり回される。どちらかが永遠に加害者で、どちらかが永遠に被害者である、ということは絶対ない。それは思想が間違っている。その思想は共感の回路を閉ざす。そこに君臨しているのはすでに他化自在天だ。
 おそらく、私たちの心の内側も、外側の世界も、地球は魔王の所領である。
 「力」を退けること(あるいは中庸に用いること?)はできるだろうか。他化自在天の支配から自由になることは。