考えていたこと。2、愛を償えば

2、愛を償えば

 地上は悲惨に満ちているが、悲惨なものが同情されるわけではない。悲惨なものは嫌われる。事実としてそうである。だから人は、自分を悲惨からすくい上げなければいけないのだ。自分自身で。他者を従わせることによってではなく、他者の自発的な共感を得ることによって。だが、悲惨なものは、しばしば自ら共感の回路を壊してしまう。それは日常的によく見られる光景でもあるのだが。

 不幸に執着する、ということがある。不幸は、人類に課せられた宿命みたいなものだが、不幸への執着は、むしろ暴力の匂いがする。救済を願うことが、力への欲望にすり替わる。まがいものの救済。不幸な人が、謝罪されて癒される、とは限らない。もしかしたら、もっと謝罪が欲しくなる。それ以上のものを欲しがる。まがい物だから、どれだけ貰ってもそれで足りるということはない。不幸は、欲深だ。

 謝罪は、償いになるだろうか。そもそも償いは、可能だろうか?  
 愛を償えば、別れになるけど。

 オバマ大統領が広島に来たとき、それにあわせて韓国の被爆者も来日した。「謝罪と賠償」というプラカードをもっている映像を見た。ハプチョンから来た人たちだと思った。胸が痛かったのだ。昔、その土地を訪ねたことがあり、やさしくしてもらった家族があり、親しくなった同世代の女の子がいた。あの慕わしい土地からやってきた「謝罪と賠償」という言葉が何かとても痛ましく見えた。たぶん、彼らと広島の人々との間にあるはずの共感が、そのときその映像から感じられなかったからかもしれない。さびしく孤立していた。

 「謝罪と賠償」。もともとは「私たちはここにいます」という言葉、「いなかったことにしないでほしい」という言葉だったのだと思う。認知と共感を求めての。

 「謝罪と賠償」について考えるとき、気が重いが、韓国の慰安婦の問題に遡らずにはすまない。いろいろな考え方はあるだろうが、私は、90年代のアジア女性基金を受け取ってほしかったと思う。それはこの国の国民の、人としての共感からなされたことだったのだから。あのときなぜ受け取らなかったかをいぶかしむ。いろいろな理由もあるのだろうが、私はそこに「力」への欲望を感じる。そして結果として「力を中庸に用いること」ができず、共感の回路が閉ざされたまま今に至ることが、とても残念だ。

 大抵の人間は、黙って生きて黙って死んでいく。みじめさの底で。言葉なんか持っていない。
 尊厳を取り戻すための言葉だったと思う。「謝罪と賠償」という言葉も。でもそれは、たとえそれを得ることができたとしても、まがいものの救済でしかない。本当は、もっと違う言葉が必要なのかもしれない。もっと違う思想が必要なのかもしれない。そのことを考えたい。

 言葉を見つける。言葉を見つけることで、私たちはまず被害者になることができる。言葉がなければ、被害者でさえない。でも被害者になったそのあとは、どうするのか。永遠に被害者であるとは、永遠に不幸であるということではないだろうか。そして不幸が力を持つことを、まがまがしいと私たちは思う。
 端的に言って、自分の不幸を他人のせいにしなければならない間は、不幸である。
 被害者になったあとは、被害者であることをやめなければいけない。被害者であることをやめる、被害者を脱ぎ捨てるために、被害者になるのだ。
(たぶんそれは、誰にでも課せられた一生の宿題。幸せになること。)

 この地上にいて私たちは「力」にひきずりまわされている。加害者も被害者も。
 「重力」とヴェイユは言う。その言葉からは、宿命、という言葉も連想される。

 「真空」という言葉をヴェイユは使う。「力」を退けたところに「真空」があらわれる。救いは、その「真空」に降りてくる。

 「真空」においてだと思う、もし共感の回路が開かれるとしたら。