さかさ髪毛(かんげ)


 ときどき、ふじこに会いたい。もうずっと前に17歳で死んだ女の子に。従姉の娘で、重度の脳性麻痺で、言葉を話すこともなく、17年を寝たきりだった。ふじこが生きている間、従姉の家にはよく行った。ふじこの傍らにすわっているのが好きだった。
 高校生のときだったろうか、学校の帰りに従姉の家に寄って、たぶんもう中学校にあがるくらいの年齢だったけれど、かわらずに寝たきりの、きれいな目だけをくるくると動かしているふじこの傍らで、そのとき自分がとてもいたわられているのを感じた。
 もっと深い孤独があるのだ、と思った。私の孤独が、ふじこのもっと深い孤独につつみかえされているように感じた。その孤独に圧倒されていた。その存在に。従姉の家を出たとき、夕闇のなかで、自分のささくれていた心がおだやかになっているのに気づいた。

 水俣病から50年目の5月が過ぎた。石牟礼道子の『苦界浄土─わが水俣病』『天の魚─続・苦界浄土』を読んだのは二十歳の頃で、ちょうどふじこが死んだ頃だった。本のなかの水俣病の子どもたちの姿は、私にはそのままふじこの姿に見えた。

 「お前やそのよな体して生まれてきたが、魂だけは、そこらわたりの子どもとくらぶれば、天と地のごつお前の魂のほうがずんと深かわい。」(『苦界浄土』)

 「かかえた腕から娘御の首が、がっくんがっくん揺れて、首は、やせ細った体より、形ばかりについておる手足よりも重うござす。抱いている腕から落ちあえて逆さ髪毛(かんげ)でございます。生え際の上のふたつのまなこが隈なくみひらいて、曇った天(そら)がじわりと笑うような、逆さになればなおさらに、鼻すじのとおったきりょうよしが。」(『天の魚』)

 「さかさ髪毛(かんげ)」などという言葉を見ると、従姉に抱かれてのけぞっていたふじこのやわらかい髪が、すぐ鼻先にあるようで、何度も何度もそのページを読み返した。

 ふじこが死ぬ前の年か、その前の年、従姉は地元の画家に頼んで、ふじこの肖像を描いてもらっていた。色画用紙にパステルで描かれたそれは、大人びた翳りのある10代の少女の顔で、見ているとせつなかった。赤ちゃんのときのかわいい写真を渡したのに、と従姉は不服そうだった。家に来た画家はふじこを見て、今のこの子を描く、と言ったのだ。
 きれいな顔の子どもだった。