ある書評

 読売新聞の最近の書評がネットで読めることは少し前に知った。これは便利で嬉しいけれど、いい書評だけを選んで載せているわけではないようで、もう過去の方角へ行ってしまっているから書きますが(でも検索すれば出てくるけれど)、『シモーヌ・ヴェイユの哲学』( ミクロス・ヴェトー著 今村純子訳 慶応義塾大学出版会)の書評はひどいなあ。思わせぶりでいて意味不明の文章だ。あんまりひどいから、すこし文句を書きます。
 私はその本を(難しい本なんだけれど)心をこめて一生懸命読んだから思うけれど(そうする価値のある本と思うけれど)、あの書評は本の内容とは関係がない。もしも本を読んでいて、あのような書評を書いたのだとしたら、その知性を疑うし、もしも読まずに、あるいは数ページ読みちらして書いたのだとしたら、それはそれで傲慢不遜なことだろう。評者の肩書きは首都大学東京教授とある。ヴェイユの書評を大学の先生が書くというからには、文学か哲学か社会学か何らかの専門家であり権威なのだと思いますが、あきれてしまった。著者訳者に対しても読者に対しても、書評に対して報酬を支払う新聞社に対しても、とても失礼な文章と思うし、はっきり言ってひとをばかにしている。ヴェイユ宗教哲学は、プラトンやカントの流れを汲みキリスト教プラトニズムの偉大さを証明する、という著者の主張であり深い内容をもつ本だけれど、本の内容にはまったく触れもしないで、<同じく「自己放棄」を目指しながら、恋多きアイリスと対照的な、シモーヌの禁欲性は、やはりこの「注視」に原因があったのだろうか>などというわけのわからないごまかし方は、私には非常にいやらしく、不愉快に感じられた。まじめな読者がいることを、忘れないでほしいと思う。