やりきれないのは

 やりきれないのは、その死が自殺であったということに尽きる。結局、履修不足はないとしていたその高校も履修不足であったのだし、整合性がない、生徒に説明がつかない、と悩んでいたと、ニュースに出ていたけれど、先生やっぱり死んだらいけん。先生の高校の生徒が、マスコミにマイクを向けられて、校長が死んだのはショックだけど、進学に問題が出てこないか心配、とか、死んだのは悲しいことだけど、受験に影響しないか心配、と語っていた。校長と生徒の間なんてそんなものなんだろう。そういえば私も、小学校から大学までの校長や学長の名前をひとりも覚えていない。
 
 整合性、なんてばからしい。一番責任があるのは、現場ではなくて、文科省の教育行政だろう。「学習指導要領」が守られないのは現場の実情にあってないからなのだろうし、なのに、文科省からは、反省の言葉のひとつも出てこないのは、なぜなのか。生徒を進学させるための必死の工夫の履修のがれ(去年までの生徒はその恩恵にあずかっただろうに)が、突然、何かの犯罪のように取りざたされて、何から何まで矛盾だらけのなかで、整合性なんて、そんなもの、律儀に苦しんで死ぬことない。たとえどんな校長と思われようと、生きていればよかったのだ。
 
 先生が担任だった高校の最初の1年間は、私には楽しい1年だった。受験のことはまだ考えなかったし、教師も生徒ものんびりしていた。ホームルームの時間を使っての毎月の読書会が私は好きだった。テキストの一冊が、スタインベックの「老人と海」だったことを覚えている。
 
 短歌をつくるという宿題もあった。ずっと後、忘れた頃になって、書いた短歌のひとつに赤い●がついてかえってきた。
 ●冷たい日錆びた鉄色身に痛い硝子ひっかく爪の音に似て
 それを見たとき、どきどきした。自分の言葉を聞き取ってくれる大人がいるということ、そして私が感じている何かは、もしかしたら他の人にも伝わる何かかもしれないということに、細胞があわ立つような驚きと喜びとを感じた。
 
 めずらしくたくさん雪が降った朝の国語の時間、これから俳句をつくれ、と先生が言った。言われて、あたりを見ると、窓の向こう、雪のなかに紅梅が咲いていた。何を書いたか覚えていないが、あの雪の朝、梅の花を見たことは覚えているし、きっとずっと忘れないだろう。先生が見せてくれた梅の花だ。