11月は

11月は、1日の息子の誕生日からはじまって、身近な人たちの誕生日と命日がひしめいていて、すこし心がくらくらする。
 
去年の今ごろ、高校の世界史の未履修問題で(ああ、もうずっと昔のことのようだ)首をくくった校長がいた。ニュースでみて、しばらく泣いた。私の高校一年のときの担任だった。国語の先生だった。
何日かして、ある日の授業中に先生は、縊死、という言葉の意味を教えてくれたと、そのときの教室の光景まで思い出して、叫びたくなった。
いつかまた私は先生の生徒になりたい。
 
大学時代の先輩の急死を知らされたのも11月。その1週間ほど前に、もう20年ほども会っていない先輩の声を空耳にきいたのだった。銀杏の黄落がやたら目にしみる11月だった。もう5年前だ。
 
田舎の知人に電話。最近の弟の消息を知る。
家族、というもの、とうに壊れ果てているが、父や兄や弟、私も、みんなばらばらに、地を這うように生きていて、愛憎ぐちゃぐちゃだから、たとえ愛だけあったとしても、お互い何もしてあげられないが、それでも何年に一度は顔をみたり、声を聞いたり、消息を知ることになるのは、家族、だからなんだろな。
11月は母の誕生日と命日。
 
近くの運動公園の紅葉がきれいだった。ちびさん、地面にながーいながーい線路をかいていた。シベリア鉄道らしい。