「春の戴冠」

ネットの古本屋で見つけた本が届いた。辻邦生「春の戴冠」。
なつかしくて、泣きそうになる。
十五歳、高校一年の夏に読んだ本。
そのころの読書ノートがたまたま手もとに残っていて、見ると、丸山薫立原道造中原中也ランボーボードレールの詩、コクトーの「怖るべき子どもたち」、北杜夫「楡家の人びと」「夜と霧の隅で」、スタインベックの「怒りの葡萄」、それから「チボー家の人々」の抜き書きがあり、そのあとに「春の戴冠」の抜き書きが10ページ分。夏休みに、夢中で読んだのだった。
フィレンツェの、メディチ家の春の時代を舞台に、ロレンツォ(メディチ家の当主)とサンドロ(画家のボッティチェリ)が、繰り広げる哲学対話を、どきどきしながら読んだ。

「ぼくたちはアルノ河の桜草を見たり、オルチェルラリの桜草を見たりしていると思っている。しかし本当は、その桜草の一つ一つが体現している<不変の桜草の姿>を見ているのじゃないだろうか。そうなんだ。アルノ河の桜草も、その<不変の桜草の姿>を自らの形で描きだしている。オルチェルラリの桜草だってそうなのだ。そしてぼくらはこの<不変の桜草の姿>をそこに見ているので、一方が萎れても、他方が同じ桜草だと認めることができるのだ。<移ろい易い>のは、この一つ一つの桜草のことなんだ。それは咲いて萎れる。そうだ。死に委ねられているんだ。しかしその桜草が自ら描いている<不変の桜草の姿>は決して萎れない。それは死を免れているんだ。(略)ちょうど水盤の水の上を夏の雲が美しく映って過ぎてゆくけれど、水盤の水は動かないように、この<不変の姿>のなかを個々のものが現われて消えてゆくんだ。」

というような文章を、えんえん書き写しているのだった。
永遠とか、不変とか、哲学とか、神的なるもの、とか、生の悦ばしさ、とか、美、とか、はかなさ、とか、そんなことがえんえん書いてあるのを、わけもわからないながら、読んだのだった。
この本が、私に、どれだけ多くの窓を開いてみせてくれたか、歳月がたつほど、大事な読書体験だったと思う。

さらにページをめくると、萩原朔太郎井上靖の詩と歴史小説、ショーロホフ「静かなドン」、辻邦生「夏の砦」ほか、福永武彦「忘却の河」、小林秀雄モーツァルト」、太宰治人間失格」ほか、伊藤整「幽鬼の街」ほか、の抜き書きがつづいている。「幽鬼の街」のあとに小林多喜二の「蟹工船」を読んだことを覚えてる。

たぶん、だいたいこんなところが、15歳の私の読書だったようだ。この年、読書感想文をよく書かされた記憶があるのは(だから読んだ本のことも覚えている)、担任が国語の教師だったからで、毎月、読書会もあった。テキストの「老人と海」の文庫本をクラスの人数分(の半分)抱えて、教師のあとを、長い廊下を歩いた記憶。
不思議な気がするが、担任は、いまの私よりずっと若かったのだ。
二年前に、高校の未履修問題で自殺した校長のひとり。担任が自殺したことに思い至ると、いまでも泣いてしまいそうになる。

思えば得がたい、あれは楽しい一年だった。その悦ばしさの記憶とともに「春の戴冠」という本がある。

ああ。<不変の桜草の姿>