星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

生存の権利、などについて

パレスチナ難民の存在は、イスラエルにとって目障りこの上ないだろう。それは、1948年イスラエル建国の際に、民族浄化のために、80万人のパレスチナ人を追い払ったという不正義の証拠であるし、建国の倫理そのものを疑わせるものだから。

でもそのことに、イスラエルはきちんと向き合わなければ、いつまでも不幸な国家のままだろう。それは周辺国、周辺民族を不幸にしているという意味において。

19世紀末からのシオニズムの運動のなかに、民族浄化の思想はひそんでおり、たとえばヴェイユは、そのような危険を、ナチズムと悪の根を同じくするものだと、批判したのだったと思う。イスラエル建国に反対したのだ。

1930年代にシオニズム運動が活発になり、パレスチナへのユダヤ人への入植が急激に増加したことの背景には、ヨーロッパでのナチズムの台頭とユダヤ人排斥があったからに違いなく、600万ユダヤ人を見殺した後ろめたさから、あるいはやっかい払いをしたくて、ヨーロッパは、イスラエルを与えたのだろうか。

ヒルバーグが、アウシュビッツについて論じていることをつきつめると、加害者も被害者も傍観者も、ともに悪の共犯者である、という、被害者にとってはとても受け入れられないものになると思うが、1940年代半ばまでに、殺す側だった者も殺される側だった者も、ともにその後の惨劇を準備したのだ。

1948年、イスラエルを追われたパレスチナ人の死の行進。

それ以来、一度に数百万数十万人殺されたりはしないが、数千人数百人数十人数人ずつ、半世紀以上も殺されつづけている、ということ。そんな状態が半世紀以上も放置されているということは、ずいぶん恐ろしいことだ。

たえまなく、生存の権利をおびやかされているということ。

権利、という言葉で、思いだす。
10年ほど前ゴミの山で、虐待されたこどもたちのケアにあたっていたNGOのスタッフと話したときのこと。
たとえば、生きるために売春している子に向かって、きみには子どもとしての権利があると、実際にその権利が守られていないのに、権利を教えたって残酷なだけではないか。きみたちには、権利があると言えるためには、言う大人が、彼らの権利のために闘っていなくてはならない。

ヴェイユが、フランス革命からはじまった近代に対して、その誤謬は、権利の観念のみを主張して、義務の観念をもたなかったことだと、喝破したが、ポスト近代を考えるなら、彼女のその言葉に立ち返るべきなのだと思う。

権利を守る闘いは、つねに他者の権利を守る闘いであるべきであり(きっとそれを義務というのだ)、自分の権利を主張することはまちがってはいないだろうが、エゴイズムの膨張という罠は危険すぎる。

絶滅を願われてしまった民族だから、600万人が殺されてしまったから、生存の権利を激しく奪われてしまったから、でもだからといって、パレスチナの土地を奪っていい理由にはならない。それはやはり植民地主義だということは認めなければならないだろう。

過ぎてしまった歴史を書きかえることはできないし、パレスチナ難民が存在するように、イスラエルという国家も存在してしまっているが、加害者であるまいとしたら、被害者でありつづけることを──神話の住人として自らを絶対のものにすることを、やめなければ。まず、あの物悲しい国歌を、何とかすればよいのに、と思う。

加害者でも被害者でも傍観者でもない存在のありかたを、たぶん、ほんとうに求めてゆかなければいけないのだ、と思う。悪とか不幸に対して。


──とりあえず、メモ。ヴェイユヒルバーグは、読み返したいんだけれど。できていないので、原文引用できず。



オバマ大統領の就任式、テレビで見ていたが演説の途中で眠ってしまった。勤勉と謙虚、という言葉が、ぼんやり残っている。公民権運動から半世紀。時代は本当に変わるんだなあ、と思った。