星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

診断名について

診断名について。
アスペルガー症候群自閉症スペクトラム<広汎性発達障害
という理解でいいのかな。

悩んでないだろう、と言われる。
悩んでない。というか、何を悩めばいいのかよくわからない。

親に似ている子どもだから、自分たちの経験が多少役に立つかもしれない、とぼんやり思っていたが、でも全然役に立たないかもしれない、と気づいてしまった。

「どうしてこんなこともわからないのか」とか「みんなにできることがどうしてできないのか。あなたみたいに頭のいい人が」とか、そういうことはよく言われてきたんだけど、でも何を言われたのか、そのときもいまもさっぱりわからん。さっぱりわからん具合が、自閉症自閉症たるゆえんなのだろうが、さっぱりわからないままの私は、同様のさっぱりわからない、を抱えた子どもに、何を教えてやれるのだ。

私には私があたりまえで、私には私の子どもがあたりまえで、でもそれが、定型発達とは違っているから、いろいろ問題も起こってくるだろう、ということなのだが、それは定型発達と、発達障害との差異を見極めることができてはじめて、悩んだり考えたりできることで、そこのところがよくわからないと、何を悩めばいいのかもよくわからない、ということになるのだろうと思う。

でも、親の顔して私は対応しなければいけないわけだから、一応、知識は知識として身につけなければならないわけだ。

一見ふつうに見える子どもが、でも、みんながふつうにできることができない、たとえば、みんなと歌ったり踊ったり体操したりしないときに、「彼は、なまけたりさぼったりふざけているのではなくて、障害特性のためにそういうことがむずかしいのだ」と言ってやらなければならないし、自分勝手な行動をするのも「それはわがままではなくて、まわりに関心がもてず、周囲の状況を意識しづらい障害特性のためなのだ」と言ってやらなければならないのだろうと思う。

はやい話、うちの子がへんだからといって、いじめるなよ、ということを、理屈をつけて言えるようになっておかなければならないのだと思う。

だからといって、そのままでいいというわけでもないので、なんとか身に付けていかなければならないスキルは、なんとか身に付けていかなければいけない。(なんかへんな日本語だ)

発達障害の子どもが幸福に生きられるか生きられないかは、運です、といつだったか医者さん言ったが、ああ、そうだろうなあ、と思う。
まわりの理解に恵まれれば、多少は生きやすいし、恵まれなければかなり生きづらい。
障害特性を、個性として受け入れられれば生きる場所はあるし、うざったいと排除されたら死線をさまよう。
これは、障害の問題なのか関係性の問題なのか。

思うに、発達障害児が幸福に生きられるかは否かは、周辺の人間の、知性とか良心とか人間性とかにかかっているわけだが、ひとはそんなことは認めないので、不都合があれば、すべて発達障害当事者のせいである。世の中はそのようにできている。

きみはたぶん、この親よりは才能のある子だけれど、でも、その才能をもてはやす輩に注意すること。手におえなくなると(必ず手におえなくなるから)たちまち排除する側になるから。

ありのままのきみをありのままにうけとめられるしなやかな精神と親しくあるように。きみ自身がそのような精神の人になるように。