正しいことなら

「正しいことなら、チャウシェスクだって言える」

ルーマニアチャウシェスク政権が崩壊した頃だから、もう四半世紀以上も前になるのかな、友だちが、何かのエッセイに書いていた言葉だけど、
選挙の季節になると思い出す。

日常的に顔をあわせる地元の人たちは、与党支持なので、私の友だちは立憲民主党や共産支持が多いよというと、なんでそんな連中を支持できるわけ、と嘲笑されるし、
一方の友人たちに、いや、自分の身のまわりは、現政権を支持しているよと言うと、なんで安倍政治を許せるのか理解できない、ということになるし。

私はどっちの友だちも大事だし、それぞれの考え方も一理あると思うので、
(でもどっちを信じるのが、結果としてよい結果になるのかについては、わからないので、)
思わず両方に対して、反対の立場を代弁したりすると、
なんだか、両陣営から責められている感じがするので、物言うのがいやです。

……だから私は選挙がきらい。
大きな政治的判断が、正しいか正しくないかを、判断する知力も眼力も、私にはないと思うし。
無理ですって、思うもん。

誰が口にする「正しいこと」が、本当に正しいことなのか、風で動くのは煙だし、
何が保守で何がリベラルかも揺らいでいるし、保守がいいかリベラルがいいかって、どっちもないと困るでしょって話だし、
その「正しいこと」は私の生活を保障してくれますか、とか、その「正しいこと」は、私たちが明日死んだとして、子どもの将来を助けてくれますか、とか、知りたいのはそういうことだけど。
私たちを信じてくれたら大丈夫、ってみんな言ってくれて、すてきだし。

政治は、人間の幸福のための技術だと思うので、どこで幸福を感じたかという実感を、さしあたり私は物差しにしたいと思っている。
「私」が投票するので、「私」の実感に従いたい。私はね。
そのほかの物差しも、もちろんありだと思う。

たとえば、子どもが療育のクラスに通えたことはありがたかった。それができたのは、発達障害者支援法があったからで、それを提出してくれたのは誰か、とか。
義父さんが関係していた障害者施設がぼろぼろで困っていたのを、建て直すために、尽力してくれた議員は誰かとか。
うちの団地の下水道整備が何十年も放ったらかしだったのを、予算をとって実現するために尽力してくれたのは誰か、とか。
できるだけ、具体的に、考える。

具体的な判断材料がないときに困るんだけど、そういうときは、人に頼まれたからでもいいと思うし、だから頼むのもいいことだと思うので、選挙運動は大切だと思う。右であれ左であれ、運動する人を軽蔑する言動だけは絶対いやだ、と思う。

投票用紙が届いた日に、期日前はすませてきた。用紙を紛失してしまわないうちに、忘れないうちに。
小選挙区が。恩を感じる人もいないし、だれにもなんにも頼まれてないし。判断に困ったけど。

何はともあれ、選挙権があるというのは幸福なことだと思うので、その幸福は、行使したいし、行使してほしいと思う。その結果が結果として良くなっても悪くなっても、一蓮托生の恨みっこなしだと思う。
私はもう選挙すませたので、私にはもう声かけなくていいからね。