クヤ・アルの思い出

10日、クヤ・アルが亡くなったことを知る。レティ先生の甥御さんで、東京に住んでいた。数日前に、肺炎で入院したと聞いていて、でもきっとよくなると思っていた。なのに、こんなことが。2011年の夏に、フィリピンで会ったとき、58歳って言っていたから、まだ64歳か65歳だ。大好きな友だちだった。
私でさえ悲しい。家族の人たち、どんな悲しいだろう。
2011年の春、原発事故のあとに、車で、東京から息子さんと一緒に呉の知人を訪ねてきたときに、わざわざ遠回りして、我が家に寄ってくれたことを思い出した。あんまり時間もなかったけど、そのときに私と息子の素敵な写真を撮ってくれた。それを探して、見つけたら、次から次へいろんなことを思い出した。

最初に会ったのは、フィリピンだった。1999年の夏、パヤタスに滞在していたとき、ある夜、やってきた。レティ先生の甥で、そのときはフィリピンで働いていたけど、若い頃から長い間日本で暮らしていた人だと聞いた。日本語が上手だった。そのとき、私が撮ったゴミ山の子どもたちの写真(そのころ雑誌に書いた記事のなかの写真かもしれない)を見てくれたのだと思う。日本から友人が来ているから一緒に海に行こう、ということになって、休日、アルが運転する車に乗って、ケソン州の海まで、レティ先生や息子のボーンたちの家族や、私と滞在していた学生と、みんなで大きな車に乗って、出発した。
その車がすごくって、日本の中古車を改造したものなんだけど、途中で故障して、修理するのに、何時間も待たなければいけなかった。タイヤの大きさが違うので、それを直さなければいけなかったし、エンジンから白い煙をがもくもくと上ったときは、怖かったけど、「大丈夫、爆発はしないから」と、アルは言った。お昼ご飯を食べに入った店で、チキンがいつまでも出てこないのを、「たぶん、今からつかまえて首を絞めるんだよ」「今ごろ羽根をむしってる」と言いながらのんびり待って、それから雨上がりの山道を越えて、ようやく海に着いた頃には、もう日暮れが近かった。
子どもたちは海に入って遊んだ。海辺に蛍がぽつぽつ飛んでいた。蛍をアーリータプタプと呼ぶことは、そのとき教えてもらったのだ。地元の親戚が、米と魚を持ってきてくれて、その大きな魚をアルたちが焼いてくれた。海辺に、椅子とテーブルがあって、バナナの葉の上で、ごはんと魚の晩ご飯を食べた。もう、真っ暗。
真っ暗な道を、マニラへ帰る。真夜中をとうにすぎて、マニラ市内にもどったあたりで、車はとうとう動かなくなった。そこから、私たちはジプニーで帰ったのかタクシーで帰ったのか。アルとボーンのふたりと、手を振って別れた。

2007年の冬、レティ先生がアジア人権賞を受賞して、その授賞式のために来日することになった。レティ先生と息子のジェイが東京に来て、私たちも上京した。東京に親戚がいるから、滞在を一日延ばしたいと聞いていたけど、その親戚が、クヤ・アルだということは、再会してわかった。数年前からまた来日して、東京で暮らしていた。在日インド人のインターナショナルスクールのスクールバスの運転手の仕事をしていると言った。
「以前、ぼくはあなたの写真を見たでしょう。パヤタスの子どもたちの写真。写真を見たら、どんなふうにこの子たちを見ているかな、がわかるでしょう。写真を見て、あなたを信頼したよ」と言ってくれた。

それから2009年の夏には、パヤタスで会った。アルと長男は日本で暮らしていたけど、奥さんと下の男の子たちはフィリピンにいたから、アルも夏休みで帰国していたんだと思う。アルと家族が来ていて、みんなでご飯を食べた。コラソン・アキノ元大統領が亡くなったときで、テレビはずっと追悼番組をやっていた。

2010年と2012年の秋には、留学中にパヤタスに通った学生たちが、自分の結婚式に、レティ先生を呼んでくれた。それにあわせて、大学で、レティ先生を囲む会をもったりして、私も上京した。アルは、移動のための車の運転、勉強会での通訳までしてくれた。夜の東京を、人に会ったり、買い物したり、ご飯食べたりするために、アルが車を走らせてくれた。それがとても、心強くて、楽しかった。
アルが、遠い世界に憧れて、15歳くらいで船乗りになって、日本にやってきたこと、そしてそのまま、日本で働いて生きてきたこと、最初に暮らしたのは横浜の寿町あたりで、それは部屋代がとても安かったから、という話を聞いたのも、夜のドライブのときだった。

アルは、日本で暮らすフィリピンの子どもたちの映画を、つくっていた。いろんなことが、よく見えている人だった。傍らにいてもらうことが、こころよかった。大好きだった。きっとみんなそうだったと思う。また会いたかったし、いろんな話を聞きたかった。

2011年の夏にパヤタスで会ったとき、退職したらフィリピンに帰りたい、と言っていた。帰れないままになってしまったのかな。
私でさえ、悲しい。たくさん思い出のある人たちはどんなに悲しいだろう。

合掌。