半分、死後

青でできているとおもう空や海のように半分くらいはわたしも (野樹かずみ)


という短歌を数年前に書いていたから、「半分、青い」というタイトルは気になって、見ていた。朝ドラ。最後まで見て、なんというか宿題が終わったみたいな気分。なんか疲れた。いや、楽しんだんだけど。

ヒロイン役の女優が18歳というので驚いた。それで40歳まで演じてしまう。

私、18歳のときは、20歳からあとも生きてるなんて想像もつかなかったし、20歳を越えても、30歳や40歳の自分は想像もできない死後のような感じがした。母が52歳で亡くなっているので、人生はだいたいそのくらいの長さだと思っていたし(でもとても長く思えた)、そこまではなんとか生きてみよう、ということだけを思ってきて、めでたく目標達成しているのだが。
さて、このあとがまた、さっぱりわからん。私の母にとっては、この年齢はもう死後なので、それを考えていると、自分がいま死後を生きているような感じがして、死後のはずなのに生きて、たとえば子どもの学校の懇談会なんかに出席しているというのが、そしてその帰りに中学生の群れに紛れてバスに乗って、窓から夕焼けを見ているというのが、相当に贅沢なことに思えたりする。

そしてその贅沢を享受するために、何はともあれ、生命力が必要なのだった。たとえば、人に会うことも、ありがとうを言うのも、ごめんなさいを言うのも、手紙ひとつ書くのも、電話ひとつかけるのも、生命力がいる。

生きているときの、なんでもない仕草のひとつひとつがどんなに大変で、愛おしいか。ドラマで、わこさんが死んでゆく場面で、母が死んでゆくときのこととか思い出したりしたんだけど。

生きている私の傍らに、死んでいる母がいっしょにいるようで、半分、死後。そう思うと、死んでゆく母を、責めることができないように、私はもう、私を責めなくてもいいんじゃないかな、いつまでも、宿題ができなくて、あれもできないこれもできないと、叱られるのを怖がっている子どものような気持ちでいなくてもいいんじゃないかな、と思ったりした。

すこしの生命力でありがとうが言えて、またすこしの生命力で笑うことができて、それを大切に思うことが、死んでゆく母に対してできればよかったし、これから死んでゆく、いま生きている私たちに対して、できればいいなと。