母の日?

母の日だったらしい。わが家は誰も思い出しもしなかった。
フィリピンの女の子たちから、happy mother's day のメッセージが届いて(ああ、しあわせだな)はじめて思い出す。

昨日、母の日らしいよ、と息子に言ったら、ゲームから顔もあげずに「ほう」と言ったきりだった。「それだけ?」「そうは言われても、どうすればいいのかと…」とやはり画面から顔をあげない。いえ、どうしてほしいわけでもありませんが。
母の日らしいよ、とパパに言ってみたら、「うちは毎日が母の日だろう」と返ってきた。ものは言いよう。そうですね。毎日が父の日で、毎日が子どもの日ですね。
おかげで楽しい人生ですよ。

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畑のイチゴ、昨日40個。今日93個。毎日イチゴジュース、と練乳かけ。明日生クリームとアイスクリーム買ってこよう。

柿の若葉もつやつやきれいで、柿の葉茶とよもぎ茶作った。いい匂いのお茶だ。柿の葉があるなら、柿の葉寿司をつくって、と息子が言う。魚が安ければ、考えてもよい。

「柿の木」という地名はたぶんどこにでもあると思うんだけど、私の田舎にもあって、子どもの私にとってはまず、バスの行先表示の地名だった。どこか遠いところの地名、というほかに知らなかったが、遠いといっても、市内の話じゃあったのだ。
夏休みの自由研究で、地名について調べたことがあった。地元の何の資料を見たんだか。それによると、柿の木は、もとは海だったところで「牡蠣」が採れたのらしい。ふうんと思い、海だか陸だかわからないようなぼんやりしたなかに、柿の木が一本立っていて、そこが、この世の果てのバスの停留所、だった、私の頭のなかでは。

柿の木。この世の果ての一本の柿の木。

ところがあるとき、実際に、バスの終点の柿の木を訪れたのだった。全然遠くなかった。初夏、山を覆うように、柿の木が植えられていたような気がする。蝋引きしたような葉っぱの照り返しが、青空の下、気味悪いぐらい、山ぜんぶが、てかてか光って眩しくて、圧倒的だった。

さて私の、この世の果ての畑の柿の木、まだ実がなったことはない。