人の心とは……

「――人の心を知ることは……人の心とは……」
というフレーズを思い出した。立原道造の詩、だということも。

 

 はじめてのものに    立原道造


ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明かつたが 私はひとと
窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

☆☆

 

詩の話ではなく、ふと見かけた発達障害の記事の話なのだが、

ADHD注意欠陥多動性障害)が「自閉症スペクトラムの人と違うのは、人の心が分からないのではなく、人の心を考える余裕がないだけ」
という書かれ方を見て、違和感をもった。
自閉症スペクトラムは、人の心が分からない?

もちろん特質として、見えないものの把握は難しい。人の心は見えない。自分や他人の気持ちの把握は、たしかに難しい。だから、「人の心が分からない」と言われるが、それは違う気がする。「わからないんじゃなくて、フラットにしたい意志が働くんだよ」と思う。

こないだ息子が、クラスの人が話しかけてきたりするときに、彼や彼女はどういうつもりで、話しかけてくるのだろうと、考えようとしたら気持ち悪くなった、と言うのがおかしかったけど。
人の心って、おおむね、ろくでもない。魑魅魍魎の住処だし、人の心をわかるって、あなたのなかの魑魅魍魎を嗅ぎ当てる、みたいなことだし、そんな楽しくないことはしたくない。
そんな魑魅魍魎にはかかわらずに、そうではないフラットな地面で、お話したい。

「おまえは人の心がわからない」と罵られることはよくあったが、でも本当は、そういうときの心って、本当は、わかってしまわれたら恥ずかしいような、心、なのではないだろうか。
魑魅魍魎と魑魅魍魎が相槌をうちあうような、おしゃべりができることが、人の心がわかることなら、それはまっぴらごめんと、中学生のときも思ったし、今もそう思う。


思うに、発達障害は、能力の欠落などではなくて、このように脳を使いたいという、脳のひとつの選択の仕方でもあるのではないだろうか。


「わからない」でいることが、優しさだっていうこともあるのだ。

「わからない」とは、人に対してフラットな姿勢でありたいということ、魑魅魍魎以外の可能性に向けて、常にあたらしく心を開きたいということなのだが(ああ、言葉にするのってむずかしい)、そういうことを、理解してくれる人は、多くない。

でも必ずいる。
ので、この世界はすばらしい、と思うよ。

 

日曜日の夕焼け。

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