体育祭

運動会が嫌いだった。行進も集団演技も、応援合戦も、叱られながらする練習も、ほんとに嫌いだった。運動会の応援合戦に、3年生がへんに熱中する高校にいて、練習に来ないとか、来たときの態度が悪いとかで呼び出されていた1,2年の頃の秋のしんどさ。あの美しい秋の夕暮れをだいなしにされたのは、やはり悔しい。3年のときは、仮装劇の責任者のひとりで、台本書いたし(ふざけたがりの男子たちにだいなしにされたし)、語り手の朗読して録音もしたし、衣装づくりのために、古シーツの染色もしたし。応援合戦の練習させられるよりはよほどましなので、やりましたが、リハーサル前夜、ついに心が折れた。これ以上、無理。
リハーサルの日、学校に行かなかった。

本番は、行った。母たちも来るし、浴衣着て阿波踊りおどるくらいはしようと思ったのだ。観客席にいた母に浴衣の帯を直してもらったときの母の笑顔を覚えているけど、思えばあれが、母との最期の秋だ。



息子が小学校のときの運動会、学年があがるにつれて、ほんとにいやそうな顔をするようになって、それを見ているのが、たまんなかった。彼がいまの中高にすすんで、まずよかったと思ったのは、運動会で入場行進がない!入場行進の何がいやかって、練習で立ってじっと待ってる時間が長いのが、体のバランスが悪い子にはしんどいのである。しかも人に取り囲まれた状態なのだから、息苦しくてたまらない。

この学校は入場行進だけではない、応援合戦もない。応援団有志の演舞があるだけ。体育祭のときの息子の表情も、ふつうに明るかったので、見に行くのも楽しかった。

さて、そのらくちんな体育祭、今年はさらに省エネが断行されていた。開催日が平日になり、借り物競争もなくなり、そのほかの個人参加の種目も減っていた。時間も短くなって、2時には終わる。4年生、クラス対抗種目が1つあるだけ、あとは男子は騎馬戦、女子は綱引き。リレー選手以外は、超気楽な体育祭だ。

午後から雨が降るかもよ、というので、傘をもっていった。
この傘が役立った。カンカン照りの日よけに。生徒席も観客席もすべて、テントが張ってあったけど、テントのなかにははいれなかったし、テントも半分は陽が差し込んでいたし。私たちは折り畳み椅子持参だったけど、なかにはテーブル付きパラソルつき、さらに小さいテントを張っていた人も。運動場広いのだ。例年夏休み明けのこの時期で、でも去年は風が吹いていたし、こんなに暑いのははじめてかも。
風景が白くかすむ。なんだかぼうっとしてくる。
これはちょっと無茶かなと思っていたら、応援団の演舞の子が倒れて(学生服着て、過酷だと思う)運ばれていった。

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去年ぐらいから、息子を見つけることが大変にはなってきた。背が低かったので見つけやすかったのが、伸びたので、みんな体操服だし、ウォーリーを探せ状態。騎馬戦のどこかで馬をして、ローハイドでも馬をする。得点係というので、掲示板のあたりにいるかと思ったら、いなくて、ようやく見つけたのは本部席。日陰の涼しいところでのんびりしていた。でも、私たちはもう暑くて吐きそうなので、ローハイドの馬を確認したあと、引き上げた。
帰りのバスのなかで、いきなり豪雨。でもバスを降りるときは小雨、すぐに止んで、再びかんかん照り。傘、日よけ雨よけに大活躍。途中でガリガリ君を食べて帰る。

昨日は過酷な暑さだった。省エネ体育祭は、結果としてよかったんだろう。

台風のあと、停電断水している地域は、とんでもないんじゃないだろうか。災害のない年はないのに、こんなに災害が続いているのに、いろんな危機と、危機の生きのび方について、考えるということを、何にもしてきてないなと思う。考える癖がついてない、と思った。

考えるためには生活をシンプルにする必要がある、と思う。でも日常は、いつもなぜかしら無駄に煩雑だ。