100万人のフーガ

ところで、体育祭の打ち上げで、クラスで焼き肉に行く話を、息子は誰からも知らされなかった。行かない人たちも数人はいた。でも、話そのものを知らされなかったのは、息子だけだったらしい。

打ち上げの話はまず、クラスのグルーブラインではじまった。息子と洪水ちゃんはスマホがない。もうひとりはスマホはあるがグルーブラインはしていない。でも個人ラインで知った。息子と親しい男子3人が断った。おそらくそれで、そのあたりはこないと認識されて、息子は忘れられたようだ。男子3人は自分たちが行かないので、話題にもしなかった。洪水ちゃんもスマホがないが、彼女は女子たちから聞いた。つまり、クラスで、息子だけが知らされなかった。
体育祭も終わるころになって、耳にしたが、だからといって、クラスの誰と話をすればいいのかもわからない。いずれにしても遅すぎる。
そして、彼が知らされていなかったということを、おそらく誰も知らないのだ。

「話を聞いていないってことは行かなくていいってことだ。ラッキーなことじゃないか」と言ってのけるパパは、それはそれでたいしたものだが、行く行かないでなく知らされなかったことに、息子は静かに傷ついている。
とはいえ、彼はクラスメートの名前と顔がいまだによくわからないでいるのだから(名前は覚えた、たくさんいる女子たちの名前と顔が一致しないだけだ、と言っている)、忘れたほうと忘れられたほうと、どっちもどっちだけどな。

さて。昔、学童保育で働いていたとき、フーガ君という男の子がいたことを思い出した。騒がしくて手のかかる子ばかりだったが、フーガはものすごく静かな子だった。1年生にダウン症の女の子がひとりいて、いつも彼女をめぐって、ほかの子どもたちが大騒ぎになるのだが、2年生のフーガを彼女のとなりにすわらせると、場が落ち着いた。
男子たちはよく暴れたし、隣家にボールを投げ込んだりするし、奇声をあげたりかんしゃくがとまらなかったりする女子、ぜんそくの発作を起こすので気をつけてあげなければいけない子、目を離せないダウンの子、のなかで、フーガくんは、彼らの騒ぎからも遊びからも離れて、2階の別の部屋でひとりで本を読んでいるような子だった。

ある日、おやつのときにフーガくんがいなかった。とりわけ騒がしい日で、私たちは気づかなかった。おやつが終わったずっとあとになって、2階から降りてきた。翌日、フーガくんのお母さんが、息子だけおやつのときに呼ばれなかった、と抗議に来た。もっともな抗議だしもっともな心配だ。

「おやつだよ」と呼ぶ。たいていの子はそれでやってくる。呼ばなくても、大人たちが準備している様子を見て、すでに集まっている。フーガくんは来なかった。2階で本を読んでいた。たぶん聞こえなかったのだろう。そして忘れられた。

という話を息子にした。アンテナの問題がまずあると思う。フーガくんやきみみたいなのは、アンテナの数が少ない。自分が関心をもったことについては、自然にとてもたくさんの情報を集めてくるけれど、身近なざわめきのなかから、必要な情報を拾うということは苦手だ。そういう自分なのだということは分かっておいたほうがいい。(苦手なのに無理して、擦り切れそうに疲れている人たちもいるかもしれない)。

(だから、その苦手を補うために、スマホは必要なんですよ、と息子が主張するのも一理ある、と思う。スマホの話はまた別にするとして)

とにかく、10人にひとりか100人にひとりは、フーガくんみたいにおやつをもらえない子が必ずいる。世の中はそんなふう。そこで考えてほしいんだけど、
首尾よくおやつを食べられる子と、食べられない子がいるときに、きみはどちらの側にいたいでしょうか。

「もちろん後者でしょう」と息子は言った。それから言った。
「ぼくは生きにくいものの味方でありたい」
あまりにかっこいいセリフなので驚いた。
(友だちに借りて読んだラノベに、そういうセリフがあったらしい)

100人にひとりがフーガくんなら、1億人いれば100万人がフーガ。焼き肉にたったひとり誘われなかったきみには、100万人のフーガという仲間がいると思えば、ずいぶん心強い話だよ。

「つまり、生きにくいものの味方であるために、必要な経験ができたということですね」と、息子は言った。
この出来事の落としどころとしては、そういうことでいいんじゃないでしょうか。

f:id:kazumi_nogi:20190914053349j:plain

昨日の夕方は平和公園にいた。夕焼け色の原爆ドーム