台風……

千葉の台風被害のニュースで、雨漏りの映像見たとき、体がざわざわざわっとふるえた。思い出したのだ。

私が中1の夏だった。台風の直撃で、被害にあった。あのときの台風の最大風速が50メートルだったのをおぼえてる。
あの朝、「ねえちゃん、雨漏り」という弟の声で起こされた。2階の雨漏りからはじまって、そこらじゅう、バケツや鍋をならべたが、追いつかず、2階を通り抜けて,1階まで雨漏りしているのを見たときの、恐ろしさを思い出したのだ。手に負えない、という感じ。なすすべがない、という気持ちに何か打ちのめされた。

それから玄関に水がはいってくるのが見えた。父と母は畳を上げはじめた。私は靴を上にあげて、それから水が引き戸の隙間から、すこしずつ、でもどんどん大胆に上がってくるのを見ていた。床下浸水は何度もあった。でも、床下浸水で止まりそうにない、とうとう水が床上に来たころ、叔父が来て、私と弟は叔父に連れられて避難した。腰まで水につかって歩いた。転んで頭までずぶぬれになった。あとで体中に湿疹が出たのが、かゆくてたまらなかった。あの頃、あのあたりの家は全部、ぽっとん便所だったことを思えば、なかなかおそろしい。

毎年、台風がくるという度に、雨戸のない窓の外には、父がべニアをうちつけていたから、窓は割れなかった。でも屋根瓦は吹き飛んで、隣のトタン屋根に穴をあけたりしていた。
少し新しい家、すこし高いところにある家はなんてことなかった。私たちの住んでいた、低い土地に古い家が並んでいた一角が、水に浸かり、瓦がはがれて、ぼろぼろだった。
一週間後、ようやく家に帰ったと思う。父と母は、ずっと家にいて、家の修理と片付けに奔走していたのだが。カンカン照りの道沿いに、畳がずらっと干されていた。テレビも冷蔵庫も壊れた。
父が左官だったので、近所じゅうの屋根の修理に忙しくしていた。材料費だけで、直していたと思う。自分の家は一番あとだった。幸い、その間雨も降らなかったと思う。市の見舞金が6万円ほどだったことも覚えている。

思えば父が、そのようになおせる人だった、ということが、子ども時代の私の安心感の大きな要素ではあったと思う。
ちょうどそのころ、テレビドラマで「大草原の小さな家」がはじまっていて、私も夢中で見ていたが、インガルス家の父さんは、理想の父さんっぽかった。インガルスの父さんとは似ても似つかない私の父の、唯一似ているところは、壊れた家の修繕をなんなくやってのけられるということで、そこだけは尊敬していた。

男が恰好よく見えるというのは、まずもって、壊れた家の修繕をなんなくやってのけるところ、だと13歳の私は思っていたのに、ついに、そのような男とはつきあいもしなければ結婚もしなかった。生まれた男の子も、そのようにはなりそうもない。どこで間違ったんだか、間違わなかったんだか。
しばらく前に、沈む床をなんとかするために、板を買ってきて、畳をあげて、床板を張りなおしたのは、私である。

台風被害のあと、家は急速にもろくなった。戦前から建っていたという家ではあるのだが、しっかりしていたのに、あの台風のあと、すこしずつ傾きはじめた。隙間風がはいるので、父が戸のところに薄い板を張りつけてはふさいでいた。それが2重3重になっていった。その後、私は家を出たが、あの台風から10年経たないうちに、家は、立ち退き、取り壊しになったと思う。

あの頃、貧しくて、素朴な暮らしで、停電も断水も、わりとよくあって慣れていて、そういうなかでさえ、台風被害は、しんどかった。父も母も若くて、それでもしんどかった。
これから、今回のような台風があたりまえにやってくるようになるとしたら、くるようになると思うんだけど……。

暮らしは複雑になり、そして、たぶん脆くなった。



エアコンの節約のため、私は息子の部屋に寄生している。定期考査前なので、息子は勉強している、はずである。はずであるが、お茶飲んでくるとか言って、階下に降りて戻ってこなかったりする。ふと机を見ると、英語のワークがひらきっばなし。その長文見たら、なんか私でも読めそうである。ついでに、1ページ解いた。
あとで、息子が来て、「あなたは、もしかして馬鹿のふりをしているけれど、本当はインテリだとか、そういうやつですか」と言った。

なんか、失礼な言い方だな。母はそんなに馬鹿に見えますか。全問正解だったらしい。イエーイ。