星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

考えていたこと。3、共感の回路

考えていたこと。
3、共感の回路

 広島の平和運動が、被爆者ひとりひとりの取り組みが、必死に求めてきたことは、その尊さは、被害者と加害者の間に、共感の回路をとりもどすことだったと私は思っている。

  80年代以降の広島の平和運動の表情のひとつに、アジアへのまなざしがあった。原爆投下に、アメリカも喝采を送ったろうが、アジアも喝采を送った。  
 原爆投下という未曾有の惨事によって、地獄に落とされた人たちがいて、でもそれは、世界中から、ざまあみろ、と思われたのだということ。  
 そのような場所から、まったく顧みられない場所から、原爆の惨事を訴えて、アジアの人々にも聞く耳をもってもらうこと、そのために、広島はかつて軍都であり、侵略の拠点であったこと、その歴史を顧みる必要があった。  

 原爆被害者でありながら、原爆被害についてだけでなく、過酷にも、侵略戦争の加害者としての側面を、語る人たちがあらわれてきた。
 そこまでしなければならないことだったのかどうか。なぜそういうことを、この傷ついた人々に負わせて、他の人たちは黙っているのか。  
 それはともかくとして、同じ被爆者以外には絶対に理解も共感もされないような、孤独の場所から、あらゆる人々に向けて、被爆の実相を理解してもらうため、そのための共感の回路を求めて、保身を超えて、戦争加担者としての自己を荷ったのだと思う。

 語り部の故沼田先生が、修学旅行の小学生に向かって、語り始めた最初の言葉に、戦慄したことを今も思い出すけれど、「私は、いじわるな子どもじゃったんですよ」と言ったのだ。  
 それから軍国主義少女だったこと、友だちへの思いやりが欠けていたこと、わがままだったこと、そんなことを語りつづけた。  
 なぜそのような語りなのかを質問したら、語り部をはじめた頃に、子どもたちから「沼田さんは、かわいそう」という感想をもらった。「かわいそう、では困るのです。それでは語る意味がない」。また、ほかの時には、大人たちに対しての証言だったけれども、「私は鬼じゃったんですよ」と語りはじめたこともあった。  
 被爆者として、特別に距離を置かれるのではなく、内省する人間として、目の前の人と、内省する人間同士として、ともにその場にいようとする心を感じた。  
 求めたのは、憐みでもなく、謝罪でもなく、共感の回路であった、と思う。人が再び原爆に焼かれないための。平和な世界のための。

 5月27日。71年後の広島に、アメリカ大統領が降り立った。
 被害、加害によって断ち切られるのは、まず人としての共感だが、その共感の回路をつくろうと、被爆者たちが、そしてどれだけたくさんの人々が、見えないところで、どれほど長い年月、どれほど切ない努力を続けてきたか。その祈りと努力の果てに、大統領の広島訪問はあった。そのことをまず大切に思いたい。
 オバマ大統領のスピーチは、よかったと思う。生命の尊厳と平等を言った。死んだのは私たちと同じような人だったと言った。あのアメリカが、ここに人間がいたと認めた。原爆投下の際には、そしてその後も、全く断ち切られていた共感の心だ。

 もちろん批判の声もある。「謝罪もないし」「きれいごとで」「空虚そのもので」。それぞれに、自分たちの考える理想には届いていない、ということなのだろうが、何というか、ようやく月まで飛んだ宇宙船に、なぜ火星まで行かないのかと、言っているようなことの気がする。たとえばスピーチは71点の内容で(自分が考える)100点ではないから気に入らない、と言っているような。でも昨日までは、0だった。
 この地球が、理想の世界でないことはたしかだ。原爆なんて気が狂った世界の産物で、でもそれが正義だった。そのような世界で、「空虚そのもの」と見えるほどにも、あたりまえに生命の尊厳と平等を語った。それは心底ほっとすることだった。批判する気にはとてもなれない。
 思うに、理想の世界に生きるに値しない私たちだから、いまここにこのようにいるのであって、その私たちがいま得ることのできるおそらく最善のものとして、大統領のスピーチはあると思う。

 「未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう」
 そのヴィジョンを共有したいと思う。