詩の利他性

賛同をお願いします!
朝鮮学校への「高校無償化」制度即時適用を求める詩人の要請書」

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2012/01/post-781b.html

要請書を提出に行くのは詩人ですが、賛同は詩人でなくてもどなたでも。
締め切り14日とか。
よろしくお願いします。

☆☆

詩人、について、最近目にとまったふたつの文章。

「そのようにヴェイユを読むことは「難しい」。その「難しさ」は、この哲学者が書いたものを「文学」や「詩」と名づけ、彼女を詩人と呼びたくなるような「何か」である。むしろヴェイユを今そう呼ぶことで、「詩人」の定義はふたたび原義に戻っていくのではないかと思う。か弱き他者のために、か弱き自身をあげて書く、そして言語の総体で他者に同苦する。または、希望を持つことが困難な時代に、ひとり絶望を、言語の次元で深く見つめた果てに、他者のためにひそかな希望を発火させる。そうした「利他性」は、いつの時代も「詩人」の定義の核にあるものではなかったか。」
   河津聖恵「何よりもまず、詩人でありたい 詩人としてのシモーヌ・ヴェイユ
 『現代詩手帖特集版 シモーヌ・ヴェイユ 詩をもつこと』

「ぼくらはその詩がほしいけど、その詩の理由はほしくないの。あなたがたは、詩は詩人のものだと考えていませんか。
(略)
 詩人なら震災後の詩を震災前に書いているものです。一秒一秒他人のものでなくて誰のための詩なのでしょうか。「私」なんてコンビニのレシートより軽く扱われて結構。詩は無力じゃないさ。だってぼくらは詩や短歌を読んで生きて来れたんだもの。詩じゃないから無力なんだよ」
   蝦名泰洋「雲遊泥泳」『洪水第九号』



自分を歌人と言うのは、私は恥ずかしくていやなのですが(それで偽名も使うのだ)、「人生は他者への奉仕である」という言葉は、ひそかに座右の銘ではあります。