子どもが連れてきた戦争

子どもは自由帳に、燃えている原爆ドームと電車と燃えているじゃがいもの絵をかいていた。たぶん、秋ぐらいにかいたんだろう。 Photo_3
「1945年8じ15ふん なつ 8月6日」「じゃがいも」
と書いてある。

夏休みの登校日は8月6日だった。式典の様子を学校のテレビで見て、黙とうした。それから先生に原爆の絵本を読んでもらった。それが「もえたじゃがいも」。
子ども、いまごろになって、8月6日は学校に行きたくない、と言いだした。式典のサイレンの音がうるさくてこわいし、先生が読んでくれる本もこわいし、学校に行くのはこわいんだ。だから学校に行かなくていいように、8月6日はどこか旅行にいくことにしようよ。だってぼくは、あの日に学校に行くのは、こわいんだよ。 Photo_4



考えてみれば、この家に、戦争を連れてきたのは子どもである。
という言い方はへんなんだが、親たちはもう、見慣れて見飽きて何とも思わなくなっている、ニュースの画面のなかから、戦争、爆弾、原爆、原爆ドームエノラゲイリトルボーイ、という言葉を、驚きや涙とともに、たんねんに拾ってきたのは子どもである。

だいたい妊娠がわかった日にイラク戦争がはじまったあたりから、きなくさかったんだが、たった4歳の子どもに「いまは戦争?」ときかれたとき、「戦争が終わってぼくらは生まれた」と思っていた自分の認識はもう通用しないんだと思った。ああ、あんたたちは戦争が終わってから生まれてしあわせねえ、って言われながら育ったのはすでに昔の話。

6歳や7歳の子どもが原爆投下の日時を正確に言える。きみが広島に生まれたことが、ただそれだけで、すこしかわいそうに思える。よその土地なら、16歳や17歳になったって、知らないままですんでいるかもしれないのに。

子どもを抱くことは子どもを落とすことであるかもしれず、子どもを落とすのはやわらかいお布団の上とは限らず、戦場や焼け野原に落としてしまうのかもしれないという、何かとてもなまなましい恐れを、運んできたのも子どもである。



8月6日、きみが学校に行きたくなかったら、行かなくてもいいよ。
旅行に行けなかったら、ママといっしょに風邪をひこう。