ヴェイユの「普遍」と賢治の「利他」

午前中病院。待たないときは待たないが、待たされるときは待たされる。待合で眠りこけてました。

えっとね。子宮内膜増殖症。悪性の所見はなし。経過観察中。いろいろ仕組みを説明してもらいました。黄体ホルモンとか、むかーし、高校の頃の保健体育の時間に聞いたような、なつかしい単語がでてきたなあ。そんな単語、何十年忘れてる。
で、医者さんにせびって、あれこれ説明してもらったのに、いま書こうとしてもう忘れてる。
覚えてるのは、お薬のみましょうってことと、来月また病院、ってことだけだったりして。
貧血の薬も出された。私、貧血なんですか? って訊いたら、この数値は低いですねえ、って、言われてもわからんけど、そういわれると、やる気なさそうな数字に見えてきた。
そっか私がなまけものなのは貧血のせいなのか、と思った。
昨日までは血圧が低いせいだ、と思っていたけど。
これもやる気なさそうな数字で。

お薬もらって帰る。何かとてもいいものをもらったような気がする。



病院の待ち時間に、梅原猛「人類哲学序説」読了。

古今東西の思想宗教と文明との関わりを論じつつ、これからの人類に必要な哲学は何かを展望するといった内容で、
読んでいけば、もっともな話ばかりなのだが、
でも、こういう批判精神は、なかなかないような気がする、と思ったのは、

つまり、たぶん私たち日本人に欠けている知の姿勢でもあるかしらと思ったんだけど、
思想宗教というものに対して、なんでもありがたく思うか、
さもなければ、なんでも胡散臭く思って斜に構えるか、になって、
そうではない知のあり方、というものを身につけていない気がする。

思想の高低浅深をはかり、判断し、何に依るべきかを自ら考えるという姿勢。
高低浅深のはかりかたはむろん、好き嫌いでなく、それなりに批判の原理がある。この本で語っているのは、梅原猛の文明批判の原理でもある。

で、この本の内容を、ごく簡単に言うと、西洋哲学ではもうやっていけない。これからは「草木国土皆悉成仏」の哲学が必要、という話なんだけど。



批判の原理について、

私のなかで、シモーヌ・ヴェイユ宮沢賢治はとても似た印象があるのだが、
ユダヤ人のヴェイユが、身近にあったユダヤの伝統をふりすてて、カトリックを選択したことと、
宮沢賢治が、実家の浄土真宗を捨てて、日蓮宗に帰依したこと、
そこには、彼らなりの、宗教批判の原理があったと思う。

ヴェイユの批判原理は「普遍性」だと私は思う。ユダヤ教よりもカトリックのほうが、より「普遍的」と判断して選択した。(でも現実には教会はそのようではないと批判して洗礼をうけず、新しい宗教が必要である、と述べてもいる)

宮沢賢治の批判原理は何だったのだろうとわかんなかったのだが、「利他」だと、この本のなかで梅原は言っていて、ああそうか、と謎がとけた。浄土真宗への賢治の不満は「そこには利他行がない」ということだったと。

(もっとも、ヴェイユの姪は、叔母は目を向けなかったが、ユダヤ教も普遍性をもっていると言っているし、梅原猛は、本来は浄土宗の教義のなかにも利他の思想はある、と言っている。それはそれとして)

ヴェイユや賢治の、批判の原理に心打たれるのは、彼らがそれを命を賭して行っているからにほかならず、思想はその実践に生きて死ぬ人がいなければ血肉をもたない、ということも考えさせられるんだけれども。

で、何でもありがたいか、何でも胡散臭いか、に回収される(あるいは雲散無償する)ような、いずれにしてもうわずった知のありかたでない、何かまっとうな批判原理(言い方を変えれば受容原理)というものを、具体的に生きるなかで、培っていかなければならないのではないだろうか。

というようなことを、思った。

ので、メモ。