いまどこかで

「詩人というのは
 なる人ではない。
 一人一人が言葉を持ち 
 それがやがて詩になる。」

子ども、自由帳にこんなこと書いてた。
どうしたのってきいたら、自分で考えたって言う。
どういうわけで?



その子ども、
「いまどこかで、誰かが死んでいる」
って、ふいに言うからびっくりする。

いまどこかで、誰かが生まれてる、ってつづける。
いまどこかで、誰かが笑ってる、
いまどこかで、誰かが泣いてる、
いまどこかで、誰かが食べてる、
……とえんえんつづく。

いまどこかで、誰かが歩いてる、
きみにむかって歩いてくるよ、

「えっ」と子ども、
それでたぶん、5年後か10年後くらいに、出会うんだよ。
「へー」
素敵な友だちに出会うよ、きっと。
「ふーん」



思い出すのはリルケの詩。
中学校のときに読んだんだ。
いまどこか……


 「厳粛な時」 リルケ

いまどこか世界の中で泣いている
理由もなく世界の中で泣いている者は
私を泣いているのだ

いまどこか夜の中で笑っている
理由もなく夜の中で笑っている者は
私を笑っているのだ

いまどこか世界の中を歩いている
理由もなく世界の中を歩いている者は
私に向かって歩いているのだ

いまどこか世界の中で死んでゆく
理由もなく世界の中で死んでゆく者は

私をじっと見つめている



思い出すのはひとつの死。
パヤタスで、パアラランに通っていた子どもたちの母親が死んで、その遺体を見たことがある。貧困の底で、疲れて、病んで、まだ若いのに老いて、痩せこけて、死んでいる。途方にくれた表情の子どもたち、末っ子の男の子が、ちょうど、いまの私の子どもと、同じくらいの年齢、背格好だった。私の子が、あのときの男の子ぐらいに大きくなったのだが。
あれから、住んでいた小屋を出て行き、身を寄せたグループホームも出て行ったと聞いたけれど、どうしているだろうか。



地図。綴りがちがうけど。

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