猫屋敷の

猫屋敷のお姉さん、と呼んでいた。
夜、電話があって、連れあいの方からで、きかなくても、内容はわかった。 お姉さん亡くなったのだ。5日の未明。もうすべて終わらせました、と。
ご連絡ありがとうございました、と返事して、それ以上何を言っていいかわからないまま、短い会話を終えた。

「薄情な女だよ」とあの世で言ってるだろうなと思う。

「はやく会いに来ないと死んじゃうよ」と5年ほど前からお姉さん言っていて、でも会ったらほんとに死んじゃいそうで、結局、行けないままだった。
20年前に八王子で別れて、そのあと一度横浜で会ったのが最後かな。 それで、去年の夏に電話で話したのが声を聞いた最後かな。

覚悟していたことだから、驚かなかったけど、受話器を置いてから、あれこれ込み上げてくる。

20年前、8か月間、一緒に暮らした。
なんかすごくへんななりゆきで、いろいろ事情があって、家主が夜逃げして競売物件になった広い家に、小児麻痺の後遺症と膠原病をかかえたお姉さんと、猫4匹が残されていた。
そこに、お姉さんと知り合った私が下宿するようになって、つまり家主のいない家に、ゆくあてのない女ふたりと猫4匹が不法滞在してたんだね、当局は、家が売れるまで、という条件で見逃してくれていた。
半年過ぎた頃には、私の友人が、何かのトラブルですむ家がない状態になって転がり込んできて、彼は2か月いたのかな。

ゆき場のない人間と猫とが、ふきだまって暮らしていた。
草ぼうぼうの庭に穴を掘っては猫の糞を埋めたりしてたなあ、とまた突然思い出したりする。

お姉さんの弟夫婦が来るのと入れ替わりで、私はその家を出て、それから1年ぐらいして、家が売れて、お姉さんもそこを出て、もといた横浜に帰っていった。

あの8か月は強烈だった。最悪の精神状態のときだったから、思い出したくない気持ちも大きいのでしたが、互いに消息もわからなくなっていたのに、また10数年後に連絡がつくなんて、縁はあるんだ。
というか、最初に会ったときから、互いに、何かしらなつかしい人でした。 たぶん、過去世というものがあるとしたら、過去世で会っていたと思う。

死なれてしまうと、あふれるようにあれこれ思い出しますけれど、
猫を好きでもなんでもないのに、写真もないのに、あのとき一緒に暮らした4匹の猫のことは、名前も顔も性格も、鮮烈に覚えている。
猫たちもみんな死んだそうです。

「食べなきゃ死ぬんだよ」と、ものすごい剣幕で叱られたことがあった。
私たぶん、それを、ぼうっと聞いていた。
あのころ、衣食住すべてに関心がもてなかったし、どうやってこの世に足をおろせばいいかが、まずわかんない感じで、体重が36キロとか38キロとかそれくらいだったんだよね、
お姉さんがごはんつくってくれるので、私は食べることができて、気がつくと体重も回復していた。
「冷蔵庫のものをいちいち食べていいかなんて、聞くんじゃない。さびしくなるから。食べたいときは勝手に食べるんだよ」 って言われたっけ。

お礼を、私は言ったかな。もしかしたら、言えていないな。

インディアン・コーヒーのことなんて私は忘れていたけど、あれはお姉さんが、電話で話したときに思い出させてくれたんだ。コーヒーのフィルターがなくて、飲めないでいたときに、私がそれを鍋で煮出して、その上澄みをすくって飲みながら、インディアンはこの流儀で飲むんだよと言ったらしいのだ。それから、それは私たちのコーヒーを飲む流儀になった。

プライバシーもあるから、あんまり書かないけど、いつか、いろんなことが笑い話になるはずだった。お姉さんも私も、笑い話したかったんだよ。ほかの人がきいたら、ぎょっとするかもしれないような話もなんだかたくさんあったんだけど。

私に連絡をくれたときは、いまの連れあいの人とおだやかな暮らしをしていた。
私に息子がいると知って、靴を、サイズが変わる度に送ってくれるのが、おかしかった。 お姉さんの体が弱ってるのは感じてた。
もう着ないからと送ってくれた服を見たら、体の自由がきかなくなってるのもわかった。

享年63、かなあ。
なんかすごく、あっぱれだった、と思う。

またいつか、どこかで会う気がしてる。
「ほんっとに、あんたはへんな女だよ」とまた言われると思って、私は戦慄してる。「親がおかしいのか、友だちが悪いのか」。
いや、私が自分でおかしいんだと思います。
って、やりとりもあったっけなあ。

いつだったか、お姉さんが歌った美空ひばりの「越後獅子」の歌はすごかった。
忘れがたいです。

合掌。