『ニッポンの嘘』

金曜日、映画観てきた。
『ニッポンの嘘』
http://bitters.co.jp/nipponnouso/

楽しかった。とても清々しい気持ちになった。
中立はない。と言う。ヒロシマも嘘。ニッポンも嘘。いや、そう言ってのける精神があるというだけで、清々しくなる。

被爆者の写真が多い。
はじめてみる写真、というわけでもない、が、それに取材時のことを語る肉声が加わると、また全然ちがう響き方をする。
原爆スラムが壊されている写真に、朝鮮人の住んでいたところから壊された、というナレーション。ABCCの検査と遺体解剖のこと。
話は聞いているのだ。原爆スラムの朝鮮人の暮らしのことも、原爆で家族が死んだことも貧困も差別も、モルモットになるのはいやだといって、ABCCに行かなかった兄たちのことも。
それらの言葉を、私は記憶した。けれども、言葉の向こうにあるものへ、想像は及んでいないんだと、福島さんの写真みながら、思った。

不幸への想像力の貧困を考えた。
想像力の及ばないところへ向けて、もう一歩風景をひらいてくれるような写真だと、思った。

ときどき笑い声が起きていた。
のは、90歳独居老人の日常のしぐさに、ユーモアがあるから。

こういうお爺さんがいてくれるのなら、生きてみるのも年をとるのも悪くない。



ああ、中立、っていうのは、卑怯っていうことだなと、朝鮮学校にはじめて取材に行ったときに思ったことを思い出した。

どちらかが重いはずなのに、どちらにも傾かないなんておかしいよ♪
って、
中学の文化祭か予餞会かで、Iくんって男子が歌ってたのも思い出した。小学校のころからの同級生でかなり問題児だったのだ。卒業後うちの弟が世話になったらしい。



そういえば、大人、というのは不信の対象だった、と思い出す。子ども、もいつか大人になるから、やっぱり不信の対象だった。人間というのは信じられない、と中学生の頃には思っていた。どこかで変節し、次第に腐り、いまわの際で裏切るだろう。

疲れて、追い詰められて、保身で、相手が悪くて、仕方なくて、欲に目がくらんで、いろんなふうな正当さで、裏切ってゆく。

でも、ときどきそうでない人たちがいる。
何があっても裏切らない人がいる。
出会えたらしあわせだと思う。
出会った分だけ、生きる勇気になった。

☆☆

被爆者の調査とABCC
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/28b6ce4100bde5d10ecba5726f872405