痛みについて

アイデンティティ
たぶんそれは、痛みのことだと思う。

私が私であって、あなたではなく、あなたがあなたであって、私ではない、ということは、私の痛みをあなたは痛むことができず、あなたの痛みを私は痛むことができない、ということだ。
私は、あなたの痛みがわからない。

鷲田清一の「おとなの背中」という本読んでいたら、痛みの文化、の話があった。
痛むとき、病むとき、人は孤立する。だから、痛む人、病む人を孤立させない、それが見舞いの文化。

お見舞い、ということ、もしかしたら上手にそれができる人もいるかもしれない。いいなと思う。私はできない。お見舞いにゆこうと思って、新幹線に乗ったのに、結局行けないまま、帰ってきたのはこないだのことだ。それから葉書のひとつも書けない。なんにも言葉が出てこない。
薄情な恩知らずと、思ってるだろうなあ。

痛みの文化、のくだりに、見捨て、という言葉があった。見捨て、という選択肢もあるのだ。
実際、痛む他者に対して、見舞うこと、癒すこと、何もできないなら(そしてたいてい、何にもできない)、それは見捨てるということでしかない。

見捨てる、という痛み。
これはあなたの痛みではない。私の痛み。

ほんとうはお礼も言いたい、出会えないより出会えてよかったし、何かしら愚かな光景をつかのま共有した、そのほかにかけがえなさと呼べるものもないんだからと、いまは思うんだけど、
言ったらもう、それが最後になりそうで。

言えないままになるかもしれない。
まだ時間があると、私は思っていたいんだけれど。