雨の森のスナフキン

「僕は自分の目で見たものしか信じない。 けど、この目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ。」
って、スナフキンが言っていた。

スナフキンの帰ってこない春はさびしい。お金もないし、テント暮らしだし、ハーモニカ吹いてるだけだし、なんの役に立つかしらね、ってミイなんか言いそうだけど、あれこれつづく危機のなかで、頼りに思うのは、やはりスナフキンだなあ。
それはやっぱり、「僕は自分の目で見たものしか信じない。 けど、この目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ。」という知の姿勢というか、倫理のありかたというか、に関わっているのだろう。

翻って、わたしたちが、この国が、この社会が、危機に際して、こんなに脆く、うさんくさいのは、何よりも、知の姿勢、倫理のあり方がうさんくさいのだ。

昨日の、雷夕立すごかった。ても空の一画は晴れていて、虹がかかっていた。雨上がりの畑で、イチゴ収穫。お隣にもあげて、飽きるほど食べて、ジュースにして飲んで、それでもまだボール一杯残っている。

夜、また雨。子どもと読んでいた本のなかで、スナフキンは、なぜか面倒をみることになったミイと24人の子どもたちをつれて、雨の森のなかをさまよっていた。



あれこれの問題、問題というもの、を考えるとき、どうすれば解決できるか、という方向で考える。当然ながらそうだ。
そしてたいてい、自分の無力に突き当たる。解決できない。なんにもできない。それからどうするか。目をそむけて立ち去るか、無力を耐えて踏みとどまるか、どちらかだ。

無力であることも、力があることも罪深い。
問題を解決する力がある、あるいは、あると思い上がる、あるいは権力という力がある、すると問題解決のために動くだろう、忘れていけないことは、アウシュビッツは、最終解決と呼ばれたってことだ。
それでもって、忘れていけないことは、権力の最終解決の後押しをするのは、問題から(人間から)目を背けた無力な人間たちであるってことだ。

問題は解決しない。
問題というものは解決しない。
問題のあるところには人間がいる。人間の存在は解決するものじゃない。
最終解決のような解決をしないためには、一緒に生きる覚悟をするほかないし、そうすればそこには希望があるし、その希望に後押しされて、何かは変わっていく、問題が問題でなくなっている、ということはあるかもしれない。

そうでなければ、たとえ問題が解決したとみえても、不幸は残る。



消されそうな人間を存在させること、彼らを黙らせないこと、声を聞くこと、彼らを消させないこと、消されそうな人間のひとりとして、もうひとりの消されそうな人間に出会っていくこと、武器も権力もないこと、金もないこと、素手であること、言葉もないこと。

そういうところから、はじまっていく革命はあると思う。



ミイと24人の子どもたちの食べ物や腹痛や風邪のことを心配しながら、雨の森を、途方にくれてさまよっているスナフキンの姿が、95年の夏に、めちゃくちゃな雨がつづいて、ゴミ山のふもとの地域は孤立していて、電話もないし、電気はずっと停電だし、金もないし、教師も雇えないなか、やってくる200人の子どもに勉強を教えていたレティ先生の姿に、ふと重なった。

そこに一ヶ月も居候していた無為徒食の私たち。

私たちは、幸福にしかならない、と思っている。
「パヤタスの子どもたち」写真ブログhttp://yumenifuruyuki.blog.eonet.jp/default/