近代の呪い

渡辺京二「近代の呪い」という本をいま読んでいる。
近代がなしとげたのは、国民国家の創出だった。つまりそれは、お上のことなんか知らねえよ、と無視していられた自立した民衆世界の撃滅だった。
一生の幸不幸は、仲間うちでつくりあげてゆくものだったのが、国家に管理され、国家に要求し、ケアされる(あるいはされず)、ものになり、個人として、ますます無力にされてゆく。
……というような話。

「天下国家がどうなろうと、そんなことにまったく関心を持たずに、それでもちゃんと自分たちで生活を成り立たせてゆくような民衆社会は、今日完全に消滅してしまいました」
「ですが、つまり国家や行政のお世話にならなくても、人の一生はちゃんと仲間うちで完結していたという自立性に、私はあくまで憧れるものです。」
……というようなくだりに、涙ぐんでしまいそうになる。

昔、1980年代に、中国の蘇州で、水上生活者たちの朝餉の湯気が小さな船からたちのぼっているのを見たとき、頭上の旗が千度変わっても、この暮らしは変わらなかったろうと思った。それが慕わしかった。

かれこれ20年前、フィリピンのゴミ山で、子どもたちが学校に行けないという事実に対して、レティ先生や地域の人たちが、自分たちで学校をつくったことに、私が感じた衝撃のひとつは、彼らが、国に対して何も期待していないことだった。

何か問題があるとき、国が悪いとか、あれを要求しなきゃ、これを要望しなきゃ、ということのほかに、手だてを知らない、そして、自分たちは無力で無責任な存在になりさがってしまう、そういう虚ろさとは無縁のところにいた。

そのようなスラムに対して、自立支援、という言葉を投げかける、ボランティアのありかたはいぶかしく見えた。
いや、彼らは自立している。私たちよりはるかに。ただ、お金がないだけだ。

パアラランのあれこれの資料をいま整理しているのだが、
あるとき、スラムの貧困のような問題を解決するために、国や社会はどういうふうになればいいと思うかと聞かれた、レティ先生の息子は次のように答えた。
「そういうことはよくわかりません。問題が山積みの政府に何かを期待するより、目の前の課題に取り組むことに集中しています」。

ゴミ山のスラムで私が出会ったのは、仲間、だったなあと思う。自分に似た人たちだった。世の中でうまく生きていくすべがわからない、とほうにくれて、結果として貧困を余儀なくされている。
パアララン・パンタオという学校を守りたいと思ったとき、私は、自分が日々の食費に事欠く程度にもお金がなかったし、支援なんてとても自分にできることとも思わなかったけれども、どんなに無力でも、それでも仲間と助け合って生きる、ということをしたかったのだと思う。
喜びの源泉がどこにあるかを、あのとき、私はあやまたず、嗅ぎ当てていたと思う。

で、本読みながら、ああそうか、私が出会った喜びは、近代の呪いからまぬがれていた精神だったんだなあと、思ったりした。

国が亡んでも民衆は残った、というテーマの歴史小説もあるけれど、すでに、民衆と呼ぶに値するものではなく、国民国家の国民になりさがってしまって、戦争にも行ったし、人殺ししたりされたり、差別したりされたりするようになってしまった近代の私たちは、もしかしたら国と一緒に滅ぶように運命づけられているのかもしれないけれど。

国が亡んでもなお無事な、なお健全な、自立した民衆世界の部分を、もっておかなければいけないと思う。
お腹すいてない? って気づかいあうあたりの。

Are you hungry? って、そういえば、レティ先生もジュリアンも、会うとまず、そう声かけてくれる。



さてそれで、パアララン・パンタオは来月21日、クリスマス・パーティの予定です。ゴミ拾うのとたいして変わらないほどの薄給で、働いてくれている先生たちにボーナスを出せればいいんだけれど。クリスマスの募金をどうかよろしくお願いします。

郵便振替番号 00110-9-579521
名称 パヤタス・オープンメンバー
12月中に寄付くださった方には、2014年のカレンダー(パアラランの子どもたちの絵)差し上げます。
春に会計報告とあわせてニュースレターお送りします。
いつも助けてくれるみなさま、ありがとうございます。

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昨日、初雪だった。