すべて二重の風景を

数日おきに、放射能の夢を見る。汚染された世界に生きている、という夢。あるとき私は山の絵を画いていて、画きながら、どうすれば、なんでもない山の景色が、放射性物質を身にまとっているのだと表現することができるのか、夢のなかで悩んでいた。一番右端の山を真っ赤に塗りながら、どうしてこんなに、どこにでもある赤だろう、と思っていた。

今朝は私は、もう20年ほども前に亡くなったと思うんだけど、在日の被爆者の朴さんの家にいた。ある夜、朴さんが、突然堰をきったように、原爆にあったときのことを語り始めたあの夜の部屋にいた。朴さんの声がして、人は死んでも声は残るのだ、だからこうしてまた会ってるんだ、と夢のなかで思ってた。外に出たら、そこはもう朴さんが被爆したときの景色だから、放射能に汚染されてるから、私は出ていかなければいけないんだけれど、出て行くことをためらっていた。
そしたら、もう起きる時間だった。眠りの外に出て行かなきゃいけなかったんだ。

目が覚めて、ああ夢だ、ここはまだ大丈夫なんだ、と思う。私の日常はまだふつうの日常だ。子どもにマスクをさせなくてもいい。
それから思う。私の夢が、この非日常が、現実になっているところもある。夢と現実が逆転してしまったような土地がある。と考えるとくらくらしてくる。

すべて二重の風景、と思う。

それでふいに思い出す。
宮沢賢治の「春と修羅



心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲〔てんごく〕模様
(略)

  日輪青くかげろへば
   修羅は樹林に交響し
    陥りくらむ天の椀から
    黒い木の群落が延び
      その枝はかなしくしげり
     すべて二重の風景を
    喪神の森の梢から
   ひらめいてとびたつからす
   (気層いよいよすみわたり
    ひのきもしんと天に立つころ)
(略)

ZYPRESSENしづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる)
(略)



安全を言う学者たち。山下…とか、高村…とか、中川…が、福島の住民に話している内容を見ていると怒りで涙が出てくる。窓をあけてもいいし外で遊んでもいいし、ここで乳児を育ててもいいし、井戸水でミルクをあげてもいい。野菜も食べていい牛乳も飲んでいい。心配いらない。
むしろ栄養が偏ったり運動が不足すると癌になるよ、神経質に心配するのもよくない、というのだが、このすり替えはなんだ。
つまり彼らは言っているのだ。母親たちに、あんたは放射能が心配だっていうけど、あんたがそんなふうに心配してることが、家族や子どもの癌を作り出すもとになっているんだよ、って、そう言ってる。
放射能のせいであってもなくても、子どもに何かあれば、母親は自分を責めるでしょう。その気持ちにつけこむようなものの言い方の、残酷さ。
「安心」という言葉に、嘘でもいいからすがりつきたい気持ちにさせるのは、霊感商法と大差ない。壺に書いとけ。「安心」って。
鼻血を出す子どもが増えているというが、ときかれて、「ありえない」と答えるのだった。そんな線量ではない、と。
調べましょう、って言ってほしいですね。水俣病のときも、胎児性水俣病などというのは、学者的には「ありえない」話でした。
放射能に関わる学者ならば、まず、まさにその放射能が、いま市民を苦しめていること、この事態が慚愧にたえない、申し訳ないという姿勢があってほしいし、あって当然だと思う。
そうでない人の言うことは、……きっと悪魔がささやいてるんだ。

どの情報にコミットするかによって、風景は全然ちがったものに見える。
すべて二重の風景のなか。



晴耕雨読。朝は畑にいた。雨がふりはじめたので、家にもどる。手紙など書くが、すっかりキーボードになれてしまって、ああ、紙に文字書くって、むずかしい。パアラランは今月から新学期がはじまる。送金の準備しなければ。懸念のことはたくさんあるが、子どもたちの絵を見ていたら、それだけで楽しくなってきた。新学期を迎える。それだけでうれしい。
彼らと一緒にいよう、と思うことと、心を晴れやかにする、ということとは、同じことだ。



久しぶりに聞いてみる。「一切合切世も末だ」
http://www.youtube.com/watch?v=a1xry5szUKk&feature=related