識字学校の記憶

現場を歩いた分だけ、価値のある本。
「ホームレス歌人のいた冬」(三山喬)読み終えた。公田耕一さんを探して、寿町を歩き回る。寿生活館が出てきて、読み続けてみたら、寿識字学校と大沢敏郎先生の話も出てきて、なつかしかった。
そうか、4階の部屋だったんだ。ずいぶん階段をのぼったような気がしたのは。著者は、以前生徒だった在日一世のドヤの経営者のおばあさんにも取材していて、私、その名前に見覚えがある。成さん。なんかちょっとこみあげてきたよ。成さん、お元気で、去年83歳。

またひとしきり思い出した。教室に来てたおばさんたち、ドヤの経営をしている成さんは、読み書きできないときは、銀行も役所も、行くのがとってもいやだった、と言っていた。また別のおばさんは、中華街の店の洗い場に新しい仕事がみつかって、足が痛くてつらいけど、がんばるって言っていた。
韓国から出稼ぎに来ていたおじさんがいて、子どもの頃、日本の統治時代で、親が日帝の学校には行かせない、といって、行かせてもらえなかった。生涯ではじめて通う学校がここだと言った。
私がもう行かなくなったあとの話だけど、そのおじさんは帰国することになって、そのときに大沢先生が、卒業証書をその人のためにつくった。韓国風に、銅板で。

思い出した。卒業証書授与の感動的な話を聞かせてくれたのは、テルちゃんという学生で、彼女はしばらくそこに通って、識字教育について卒論書いたはず。卒業後、何年かして行方がわからなくなった。しばらく家族も友人たちもとても心配していた。その後の消息を聞かないのだが。
どこかで、しあわせに暮らしていてくれるといいなと思う。

思い出した。教材があった。大沢先生手作りの。いろんな詩や短歌や俳句、それから前の週に生徒さんたちが書いた作文を、きれいに書き写してコピーして、毎週配っていた。魅力的な教材だった。配布されたそれらを自由に読んで、それから自由に作文を書いて、途中で、会話があったり討論があったりした。
通った数回分の、あの教材、どこかにしまっているだろうか。東京を引き払うとき処分したとしたらもうないんだけど。

1995年秋の、わずかな、かけらほどの記憶なのに、こんなにずっと後まで、思い出すことになるとは思わなかったけど、夜のなかであの教室がぽっかりと明るかったことと、教室に、きれいに研いだ鉛筆が用意されていたこととが、何かすごく幸福なことのように思い出される。大沢先生の、生徒さんたちへの尊敬心が美しかった。

本の話に戻ると、私は朝日新聞読まないから知らないんだけど、アメリカの獄中歌人、郷隼人が、件のホームレス歌人についての歌を投稿していたらしい。それで大沢先生は晩年、郷隼人の短歌を、よく教材で使っていたらしいと知った著者は、郷隼人に取材をかねてそのことを書き送った。返事がきた。「とても嬉しかった。大変感激した」。大沢先生に「お礼の言葉をひと言伝えたかった」。

この著者は、何かしあわせな仕事をしたと思う。現場を歩いた分だけ。
私は、また久しぶりに、寿識字学校のことを思い出して、幸福だった。

以前思い出したときに書いたの。

  識字学校

階段の糞尿よけて教室の階まで昇った 月のほうまで 

おぼろなる記憶の教室に鉛筆が美しく削られていたこと

ここにくればだれもが生徒 一枚の紙と鉛筆わたされている

学校に行けなかった理由のさまざまの 差別を差別と気づかざりけり

ひらがなの一文字ずつが心から信頼されてかがやいていた
  大沢先生逝去
先生が生徒にお茶を出してくれた寿識字学校 もうない