星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

向日葵の種まきしのみに

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき  寺山修司

「短歌研究」の6月号の特集が寺山修司で、久しぶりにこの歌も思い出した。



畑にぱらまいた向日葵の種から芽が出ている。去年のゴーヤの種からも芽が出ている。まあ勝手に育ってみてごらん。

今回の畑のトラブルで、たぶん一番傷ついているのは、Tさん自身だろう。
Hさんをつかまえて、これで水やりが楽になると思ったのに、
うまくいかなかったのである。何かが。なぜか。

うまくいかなかったから、それ以前の状態に戻そうと考えたのだろうが、それ以前の状態とは違う状態をつくったのは、そもそも自分で、やっぱり気に入らないから出ていってとか、そういう理屈は通用しないよ、と思うけど、
そんなこと言っても、さらに傷つくだけだろうな。

それでまた、以前のように、せっせと自分で水運んでいる。大変なので余裕がなくなる。去年、一緒に使いましょう、と運んできた水ためる風呂おけも、自分だけが使いたい。

向日葵の種まきしのみに、どころでないのだった。
荒れ地を耕したのである。ひとつひとつ石も拾ったのである。
だから耕してしまった土地は、自分の土地なのである。たぶん、Hさんのなかではもう、そんなふうなのだ。
荒れ地を耕したのは私も一緒だが、いつでも証拠隠滅できるようにして、イチゴ? あれは野イチゴですよ、とか言い逃れようと思っている私と、心構えはまったく違うのだ。

たぶん、こんなふうな執心が、領土問題なんかの根っこにはあるのかもしれず、ことは土地と水だから、本来、生きられるか否か、ということに関わるから、
道理もへったくれもなくなってくるんだろうな。

土地を使う権利を、私たちはもっていないが、実行支配している。
耕してれば、ゴミの不法投棄はないし(耕していない下の段は草におおわれてわかんないが、あれこれの大型ごみも捨てられている)、持ち主の業者も町内会も、代わりに管理してもらっているようなものなので、文句は来ない。いまはね。

だけど、一線を越えたら、面倒になる。
そこをTさんがわきまえられるかが、微妙かなという気がしてる。
もし畑使えなくなったら、また一番傷つくのはTさんだろうなあ。

畑に風呂おけのかわりのポリバケツ設置。Hさんのおかげで、私は断然水やりが楽になった。水代の相談をしておこう。