逝きし世の

「逝きし世の面影」のなかで、渡辺京二は、
「在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうる限りの気持ちのよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていた」
ということについて、明治半ばに来日した、アーノルドの文章をひく。

「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、「やかましい」人、すなわち騒々しく不作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、暴言を吐いたり、ふんぞりかえって歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである」

「気持ちよく過すためのこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむうえでのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心──」

「生きていることをあらゆる物にとってできる限り快いものたらしめようとする社会的合意、社会全体にゆきわたる暗黙の合意は、こころに悲嘆を抱いているのをけっして見せまいとする習慣、とりわけ自分の悲しみによって人を悲しませることをすまいとする習慣をも合意している」

逝きし世、である。そのような文明の季節は過ぎたのだ。
でもその面影が、私が好きだった人たちの面影のなかに、ないというわけでもなく、こみあげるようななつかしさ、慕わしさをおぼえる。
そのような面影を、未来に、ふたたび憧れていけないというものでもない。

夜、向かいの森から、鹿の鳴き声が聞こえていた。隣家の犬が吠えていた。