「存在しよう!」と

『闇より黒い光のうたを〔十五人の詩獣たち〕』(河津聖恵)
そこには磁石があるとおもう。その磁石を、かりそめに(詩獣)と名づけたと思う。この本は、詩獣マークの磁石のありかを示そうとした地図のようだと思う。
素敵ないい地図だ。


そうして、それらの磁石に引き寄せられたことについて、あれこれと思い出しながら、その磁力にあらためて思い至る、と。

15歳のときノートに書き抜いたリルケの詩、誰の翻訳なのかがいまだにわからない。もしかしたら詩集を読んだのではなくて、別の本のなかでの引用だったのかもしれない。ともあれ、記憶した。

 「存在しよう!」と心に決めた以上、
   欠乏がこの世にあるなどという迷いにおちいるな。
   絹糸よ、おまえは織物の一すじなのだ。

   たとえおまえが心の中でどのような模様に織り込まれていようと
   (たとえそれが痛苦の生の一こまであろうと)
   讃めたたうべき壁掛けの全体こそ おまえの志であったことを忘れるな。      
                 R.M.リルケ 「オルフォイスへのソネット」から 

欠乏がある、というのは迷いなのか、と驚き、でも、この詩を信じることにした。
それから十数年たって、心が、不足ばかりだ、と叫んだときに、憎悪でへんになりそうになったとき、この詩を思い出した。

堕ちたな、と思った。
堕ちたのは、私の心だ。

求めたのは、堕ちたこころの捨て場所。どうしてそのとき、たまさかフィリピンに行く機会があり、どうしてそのとき、ゴミ山に行けるルートがあったのか、不思議だが、そのとき、どうしてもゴミのなかに行きたかった。たどりついて数日間、憑かれたようにゴミのなかを歩き回るうちに、納得した。
捨てたあとは、拾うのだ。

私がゴミのなかから拾って帰った壺を、レティ先生は植木鉢にして、それは長いこと学校の裏庭にあったっけ。