正しく恐がる

このあたりも、微妙に節電の気配だから、関東あたりはもっとそうだろう。
図書館に行っても電気屋に行ってもスーパーに行っても寒くないので、私はこれくらいがいい。

連日かんかん照り。梅雨あけるまでは、けっこうな大雨で、子どもがしきりに耳を押さえる仕草が中耳炎になったときと同じで、まさか、と思いながら、痛いの?ときいたら、「雨がうるさい。ママ、雨の音とめて」って少し泣きそうな声で言う。聴覚の過敏のせいで、こわいのだ。でもそれは、無理だなあ。

もうじき夏休みだね、という話をすると、「登校日に学校に行きたくない」と言う。このあたり登校日は原爆投下の8月6日、今年は6日が土曜日だから5日。去年は、学校に行って平和式典のテレビをみて、黙とうして、原爆の絵本を読んでもらったらしい。あの平和式典のサイレンの音がこわい。先生が読んでくれる絵本もこわい。

こわいなら行かなくていいよ。先生には言っておいてあげるよ。

広島に生まれた子が原爆のことを知らないですむはずがないが、ちいさいときに無理してこわい思いを我慢することはない。きみがこわいなら行かなくていい。

と思っていたら。

土曜日、図書館に行く。もう帰ろうかと思って、子どもを探すと、すみっこの郷土の本のところにしゃがんで、何か一生懸命読んでいる。原爆絵本シリーズ。かなりおどろおどろしい絵だったりするが、最後のページまで見ている。ふむ、自分で見るのはこわくないのか。

うちにある戦争関連の絵本、全部隠していたんだが、本棚に出すことにした。出すと「広島の原爆」という本、読んでいた。難しかろうと思うんだが、街の俯瞰図を眺めているのは至福らしい。電車も走っているし。



夕方スーパーに行く。全国展開のスーパーだが、品物の売れ方が以前と違う。地元産の牛乳はほとんど売り切れ状態だが、関東以北のものはほとんど売れていない。関東の工場から来たスパゲティは安売り山積みしてあるが、品薄になっているのは輸入品。関東から来た乾燥わかめが圧倒的ななかですみっこの中国産だけが売れてゆく。
肉も魚も、ただ「国産」としか書いてないものは、残っていて、ぺたぺた安売りシールを貼られてゆくが、私も買わない。ひとりで貧乏してるなら、安売りしか買わない主義を変える必要もないのだが、あいにく子どもがいるのである。
震災の話も、原発事故の話なんて、このあたりで、話題にもならない、それは3月の震災直後からそうで、むしろ不思議で不安になるくらいの沈黙だったけど、沈黙の消費者の買い物の仕方は、歴然と変化しているのだった。

そいで晩御飯だが、義父が高知に行っていたらしく、高知土産のカツオのたたきをもってきてくれる。うれしいうれしいうれしい。ああ、子どものころに食べていたものとおんなじ味がした。



図書館で新聞の地方欄見たら、福島から広島に赤ちゃんを連れて避難してきた若いお母さんが、知らない土地でのひとりきりの子育てがつらくて、もう福島の家族のところに帰る、と言っていた。つらい記事だなあと思った。

放射能を正しく恐がる、と言いだしたのは誰か。困るのは、「正しく恐がる」とはどういうことか、が、科学者もジャーナリストも、口を開く人によって、まったく違う内容だ、ということだ。
「正しく恐がることが大事」って言う。内容を読んだら「恐がらないことが大事」って言っている。その福島県のアドバイザーの教授の言うことを、信じる人は多いかもしれないし、信じたい人も多いかもしれないが、一方で、彼を犯罪者として刑事告発するという向きもある。
どちらが正しいか。

ふつうに考えて、より危険、と考えて、より遠くに逃げるほうが、より安全、と思うけども。
たばこは健康にリスクがある。だからやめる。放射能もリスクがある。だから逃げる。とはいえ、簡単に家も仕事も投げ捨ててゆけないところが、難しいのだろうなあ。
でもこわいと思ったら逃げていいし、こわいと思ったら、牛乳は飲まなくていいし、こわいと思ったら、プールで泳がなくったっていいじゃないか。

つきつめれば何を信じてどう動くかって、自分の直感しかない。その直感は、人生経験だったり知識だったり、環境だったり、いろんなものをふくんでいるわけで、そう考えると、事故は同じ土地にいてさえ、誰しものうえに平等に起こったものでなく、ひとりひとりの運命として起こってきているものみたい。
遠くへ逃げてもまた、もどる人もいるのだ。

もしかしたら、何年か十何年かのちに、福島にも、被団協みたいな被ばく者団体ができるんだろうかなあ、ってパパに言ったら、無理じゃないか、とパパは言った。
仮にできても、被団協みたいな説得力はもたんだろう。原爆みたいに何も知らされない一般庶民が、アメリカにやられた、というんじゃない。自国の起こした事故で、しかも逃げようと思えば逃げられた。移動の自由はあるんだから。危険の情報だって、知ろうと思えば知ることができた。好きで危険なところにいたということになるんじゃないか。

容赦のない言い方をする。



サイレンの音なんかなんでもない。でも私の子どもはこわい。
それはもちろん、正しい恐がり方だ。
サイレンも雨の音も恐くていいけれど、原爆も放射能も恐いけれど、でも、きみがきみの運命を生きることに対しては、どうか勇敢であってください。
親がどんなにぼろくそでも、親のせいにもできないんだからな。