思い出せないアリランの花

 ああ
 ニッポン テンノヘイカ
 テンノヘイカシャマ ウチは あ
 空が 全部(ちぇんぷ) ウチは
 空が 全部
 いちどに 落っちゃけてくる
 くるから
 朝鮮原爆(げんぱく)のおとめのなまえの
 融けたおせんべい

 長崎は石のたたみ
 白い服だけくっついて
 石の皮になったのよ
 皮の中から身が起きて
 思い出せないアリランの花


石牟礼道子「はにかみの国-死にゆく朝の詩-」から。
ずっと以前に読んで、どこで読んだのか思い出せないでいたのだが、『原爆文学という問題領域』(川口隆行)に引用されていた。

これはすごいなあ。

いきなりいろんなことがすっきりした。
おそらく、言語表現として、これくらい書ければいいのである。
(おそらく加藤治郎さんはそのことを言っているのだろう)

で、これくらい書けないときに(書けませんから)、どうするか、というときに、せめて声の痕跡を留めようという私のなかの判断が、「」を使った聞き書きそのままの表現になる。
でも、書かないよりは書くほうを選ぶのは、それらの声の痕跡が消されかねない、この現実世界への不信が私のなかにあるからで、たぶん、それがなかったら書いてない。

「足もとから地面が消えてゆく気がした朝鮮人だと思い出したら」
被爆して差別もされて(朝鮮やし)兄は青酸カリ呑みました」                     (『もうひとりの(以下略)』)
       
などをすべりこませた。         
短歌でなければゲリラです。

でもいつか。
いつかみんな。
いつかはみんな。
思い出せないアリランの花。

私がここにこうしていることも。