「絶望をごまかす装置」

『原爆文学という問題領域 増補版』(川口隆行)のなかの、
「原爆テクスト教材論」で、「平和のとりでを築く」という国語教科書の文章に、原爆ドームの写真とともに載った一枚の写真について触れてあるくだりが印象的だった。それは核兵器の開発に反対するパキスタンの人々の写真で、世界の人々の平和を求める気持ちの強さをを表象しようとしたのだろう、という。
で、著者が何を問題とするかというと、その写真が、インドパキスタンの軍事的な衝突と核開発競争、という歴史的文脈から切り離されることへの危惧だ。

「冷戦後の宗教ナショナリズムとも絡んだ両国の核開発競争は、冷戦期に確立した広島・長崎の訴えがすんなりとは世界に届かないのではないか、という不安を日本の一部でもたらすこととなった。(略)林京子は「長い時間をかけた人間の経験」において〈テレビニュースで報道される現地の、一般の人びとが喜ぶ表情を見て、私は絶望した〉〈空には放射性物質が飛び交っているのだが、見上げる空は青く晴れている。そして原子爆弾は、自分やその子供たちの頭上には落ちてこないと、保有国の人びともインドやパキスタンの人たちも、信じているのだろう〉と主人公に語らせている。
 (略)教科書に添えられた写真に写っている団体の取り組みとは、インド、パキスタンにおいてナショナリズムに熱狂するマジョリティの動向と対抗するかたちで、地道に続けられてきたマイナーな運動であろう。確かにそれは「希望」である。だが、その「希望」とは、マジョリティに容易に屈しない、苦渋に満ちたマイノリティの運動の軌跡を想像することにしかない。だが教科書に掲載された「核兵器の開発に反対する人々(パキスタン)」の写真は、歴史的社会的文脈から切り離されることによって、林京子が率直に語るような〈絶望〉をごまかす装置となる恐れさえある。」

「〈絶望〉をごまかす装置」という言葉が、いたく心に染みた。
考えてみれば、3・11以降、とりわけ原発事故について、政府もメディアも専門家も、どれほど「〈絶望〉をごまかす装置」になりさがってしまっていることか。
大したことないって、それから大変なことが起きているけど、大丈夫だって、直ちに影響ありませんって、メルトダウンはありませんって、言ってたよな。
なんでこんなにたいへんなことになったんでしょうってきかれて、今夜のNHKスペシャルでまだらめさん「うっかりしてた」って言ってた。怒りを通り越して笑った。

こんなの見かけたし。信じられないけど。
http://savechild.net/?p=738
山下某などはきっと、「絶望」をごまかす装置として、重宝されてるんだろうと思う。言ってることは、ただの気休めその場しのぎとしか思えないけど。


戦後の原爆スラムで、被爆した若者が、被爆者は「緩慢な自殺」を強いられてるんだと語ったという話を思い出す。「絶望をごまかす装置」がもたらすのは、たしかに、緩慢な自殺なんだと思う。