山田航さんの歌集「さよならバグ・チルドレン」に、
自閉とはむしろ自開だ秒ごとに傷つく胸を風に晒して
という歌があって、ちょっと驚いた。あっぱれだなと、個人的には思う。
「むしろ自開」というのは、自閉症関連の本の基本的なところに出てくるんだけど。
自閉症のテキストのエピグラムになりそうな歌。
☆
17日。午前中、発達障害の学習会に行く。
子どもも一緒。
当事者向けというよりは、一般向けに、発達障害への理解を促す、という内容。男女共同参画をすすめる会、というところが主催。参加者は年配の女の人がほとんど。
子ども向けでは全然ないが、一緒に来るっていうもんなあ。「発達障害」との出会い、っていうパンフレットもらう。その表紙の絵が、発達障害者の描いた道路標識の絵なもんで、魅了された子どもはめくって一生懸命読んでいた。
広汎性発達障害
自閉症、アスペルガー症候群、注意欠陥多動性障害、学習障害。
(それぞれの特性が書いてあるけど、略)
発達障害には様々な現れ方があります。
○言葉・コミュニケーションにおける特性の例
言葉をオウム返しする
言葉を字義通りに受け止めてしまう
言葉の使い分けが苦手
○対人関係・社会性における特性の例
暗黙のルールがわからない
接し方のルールがわからない
○不注意・多動・衝動性の例
同じ年齢の人に比べ、注意力や集中力が極端にない
考える前に、思いついた行動を唐突に行う
○パターン化した行動、興味、関心のかたよりの例
同じ行動を何度も繰り返す
ある特定の分野への知識・興味が極端に強い
機械的な記憶力が極端に高い
○不器用さや感覚における特性の例
身体を動かすことが極端に苦手で不器用
感覚が極端に過敏または鈍感
○学習における特性の例
知的な遅れを伴わないが、読み・書き・計算などのうち特定のもので極端な困難がみられる
それぞれ、かわいいイラストやふきだしがついていて、「ただいま」に「ただいま」と答えたり、忘れ物していたり、かけっこのピストルの音がこわかったり、しているが、子ども、まるで自分のことをかかれているような、それらのイラストを見てなんといったか。
「ぼくにはあてはまらないね」
それは自己認識があやまっているよ。「ただいま」ってパパが帰ってきたら「ただいま」って言うでしょ。って言ったら、ちょっと思い当たって、
「あ」
って言う。
全部ことごとく、あてはまっています。私もだけどね。ひとつふたつなら、誰にもよくある話で、発達障害の診断は出ませんが、たくさんあてはまると、診断が出ます。
おじいちゃんは、きみが自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の診断を受けたことを、医者がまちがっていると言って、認めようとしませんが、言うと怒りますが、同居もしてないし、まあいいや。
でも、本人にとっても、発達障害なんてなんのことか、って話だよね。
自分にとっては自分があたりまえだもん。
あなたにあなたがあたりまえであるように、私には私があたりまえ。
でもその自分のあたりまえを、いちいちいちいち、へんだ、おかしい、かわってる、常識がない、礼儀を知らない、ふざけてる、人をばかにしてるのか、って叱られたり憎まれたりしなきゃいけないから、生きることは、死ぬほどつらくなるんです。
多数派の少数派に対する無理解とか暴力とかに、つねに晒されているってことなんだけど。この暴力は、多数派からは見えない。
☆
もらったプリントから。
○脳機能の問題があるために、
知覚すること(見る、聞く、嗅ぐ、触れる)
認知すること(意味をつかむ、関係をつかむ)
記憶すること・記憶を呼び出すこと
表出すること(話す、行動する)
これらのやりとりが多数派と異なるために、社会参加の課程で、様々な困難に出会う。
○先天的。一生涯発達障害とともに生きていくことが決まっている。大変な努力をしてもフツーにはなれない。
本人にも家族にも責任はない。支援は社会の責務である。
○能力(行動能力・作業能力)があるが故にトラブルとなる
旧来の「障害者」イメージでは理解はむずかしい。
周囲が期待する言動・反応とのギャップ
本人のやり方と世間一般のやり方とのギャップ
○困難・苦労が理解してもらえない。スキル・知識がある故に誤解が生まれる。
できるのに努力していない。できないはずがないのにふざけている。と誤解される。できるようになるはず→無理をさせる。
→自己肯定感が阻害される。
本心や真意が非常に伝わりにくい。
独特の言動や感覚を、多数派の常識で判断すると大きな誤解をする。
みんな(多数派)のあたりまえが、あたりまえにはできない苦労。
困っている、戸惑っている、のは本人である。本人の困難・苦労は常に過小評価されている。
障害のあることは不幸ではない……本当か?
周りが、障害であることを不幸にする。障害を不幸に変えてしまう。
○何を支援するのか
1.本人の能力開発、「多数派」のやりかたを習い、多数派にあわせてスキルを獲得することへの支援→訓練 (強制)
2.本人の特性にあった方法、道具を利用して「多数派」とのやり方のギャップをすくなくする。→バリアフリー (矯正)
3.本人の特性、残存能力を活用できる場を用意して、本来持っている力を引き出して暮らせるように環境を整える→ストレングス・モデル
4.「多数派」の仕組みを変えて、どんなやり方でも大丈夫な社会にするという支援→ユニバーサル・デザイン (共生)
1→4へ比重を移してほしいですが、現実には、本人の訓練ばかりが強いられている。
○自立という言葉がなぜ嫌われるか。
生まれたときから社会の一員であり、社会参加している。
「社会参加」は目的ではない。
問題は社会参加の質である。障害があることで、質に制限がある。→支援必要。
支援「してあげる」(上から目線)→ほめるための支援
→ 「してもらう」ことを考える→ありがとう(感謝)を言うための支援
☆
ごく基本的なことでしたが、いい内容でした。
でも世間が、この基本的なことを理解してくれるかっていうと、してくれないだろうなって、思うけど。
聞きながら、いろんなことを思い出した。それでルサンチマンが疼くのが困った。
相手が言ってることがよくわかんないから、同じことを真似して言ったりやったりしてたら、ものすごく怒らせて、でもどうして自分がしたと同じことをされて憎むのだろうと、さっぱりわかんなかったこととか。
それから突然、思い出した。10代の終わりから、たぶん10年もそれ以上も、私は思ってた。
「私は私を憎みつづけるから、だから、存在することをゆるしてほしい」
たぶん、世の中で自分は生きていてはいけない存在だと思って、それでも生きたいと思ったから、見えない世間と、自分との間で、そのような契約を結ぶことにしたんだった。
自分に何かの権利があるとは思わないようにした。おかげで、どんなに金なくても衣食に困っても不満は感じなかったし、人を羨ましいとも思わなかったし、それはそれで幸せではあったが。
(でも、契約を破棄したはずのいまも、古着があるのに新しい服を買うとか、ひとりで自分のためにケーキを買うとか、罪悪感がこみあげてきて、できない。)
どこで契約を破棄したか、わからないけど、10数年間は、強烈に心にあった契約だった。苦しいといえば苦しかったが、でもそのときは、それがあたりまえだし。
でも考えてみれば、へんな契約だ。する必要のない契約じゃないだろうか。でもそのときは、そう気づかない。その契約がなかったら、自分が生きていていいという理由がわからない。
その契約のことは、もうすこし考えてみたいけど、
18歳ぐらいの子どもに、自分を憎むことが生きることの免罪符であるように考えさせた、世の中の力はなんであったか、をようやく思って、怒りが湧いた。
理解の努力が、誤解の拡大にしかならない、という状態がつづいて死にたくなったときに、気づいた。ああ、理解されようと思うほうがまちがっているんだ。理解なんかしてもらわなくていい。(この決断は、こわかった。友だちいらないと一緒だから)。
でもそう思ってから、すこしずつ気持ちが安定した。
理解してもらうことはできない。こちらが理解することができるだけ。
そんなことを、つらつら思い出した。
学校現場についての話が印象に残った。
10人の教師がいれば、2人は、発達障害の子どもへの理解がある。2人は、まったく理解がない。これは話しても無駄。あとの6人は状況によってかわる。理解ある先生がもう1人いれば、学校全体のとりくみがかわる。担任に理解がなくても、教頭校長に理解があればなんとかなる。最悪なのは、教頭校長がまったく理解しないほうの2人である場合で、そうなると転校を考えたほうがいい場合もあるかもしれない。
10分の2。悪くない。
子ども、1時間ほどはノートに世界地図かいて遊んでいて、それから部屋を脱出、ビルのなかをあちこち探検していたらしい。
☆
そのあと、バスまつり、というのに行った。
私はなんにも面白くないんだが、子どもは、ほんもののバスの運転席にすわって、楽しかったらしい。
自閉とはむしろ自開だ秒ごとに傷つく胸を風に晒して
という歌があって、ちょっと驚いた。あっぱれだなと、個人的には思う。
「むしろ自開」というのは、自閉症関連の本の基本的なところに出てくるんだけど。
自閉症のテキストのエピグラムになりそうな歌。
☆
17日。午前中、発達障害の学習会に行く。
子どもも一緒。
当事者向けというよりは、一般向けに、発達障害への理解を促す、という内容。男女共同参画をすすめる会、というところが主催。参加者は年配の女の人がほとんど。
子ども向けでは全然ないが、一緒に来るっていうもんなあ。「発達障害」との出会い、っていうパンフレットもらう。その表紙の絵が、発達障害者の描いた道路標識の絵なもんで、魅了された子どもはめくって一生懸命読んでいた。
広汎性発達障害
自閉症、アスペルガー症候群、注意欠陥多動性障害、学習障害。
(それぞれの特性が書いてあるけど、略)
発達障害には様々な現れ方があります。
○言葉・コミュニケーションにおける特性の例
言葉をオウム返しする
言葉を字義通りに受け止めてしまう
言葉の使い分けが苦手
○対人関係・社会性における特性の例
暗黙のルールがわからない
接し方のルールがわからない
○不注意・多動・衝動性の例
同じ年齢の人に比べ、注意力や集中力が極端にない
考える前に、思いついた行動を唐突に行う
○パターン化した行動、興味、関心のかたよりの例
同じ行動を何度も繰り返す
ある特定の分野への知識・興味が極端に強い
機械的な記憶力が極端に高い
○不器用さや感覚における特性の例
身体を動かすことが極端に苦手で不器用
感覚が極端に過敏または鈍感
○学習における特性の例
知的な遅れを伴わないが、読み・書き・計算などのうち特定のもので極端な困難がみられる
それぞれ、かわいいイラストやふきだしがついていて、「ただいま」に「ただいま」と答えたり、忘れ物していたり、かけっこのピストルの音がこわかったり、しているが、子ども、まるで自分のことをかかれているような、それらのイラストを見てなんといったか。
「ぼくにはあてはまらないね」
それは自己認識があやまっているよ。「ただいま」ってパパが帰ってきたら「ただいま」って言うでしょ。って言ったら、ちょっと思い当たって、
「あ」
って言う。
全部ことごとく、あてはまっています。私もだけどね。ひとつふたつなら、誰にもよくある話で、発達障害の診断は出ませんが、たくさんあてはまると、診断が出ます。
おじいちゃんは、きみが自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の診断を受けたことを、医者がまちがっていると言って、認めようとしませんが、言うと怒りますが、同居もしてないし、まあいいや。
でも、本人にとっても、発達障害なんてなんのことか、って話だよね。
自分にとっては自分があたりまえだもん。
あなたにあなたがあたりまえであるように、私には私があたりまえ。
でもその自分のあたりまえを、いちいちいちいち、へんだ、おかしい、かわってる、常識がない、礼儀を知らない、ふざけてる、人をばかにしてるのか、って叱られたり憎まれたりしなきゃいけないから、生きることは、死ぬほどつらくなるんです。
多数派の少数派に対する無理解とか暴力とかに、つねに晒されているってことなんだけど。この暴力は、多数派からは見えない。
☆
もらったプリントから。
○脳機能の問題があるために、
知覚すること(見る、聞く、嗅ぐ、触れる)
認知すること(意味をつかむ、関係をつかむ)
記憶すること・記憶を呼び出すこと
表出すること(話す、行動する)
これらのやりとりが多数派と異なるために、社会参加の課程で、様々な困難に出会う。
○先天的。一生涯発達障害とともに生きていくことが決まっている。大変な努力をしてもフツーにはなれない。
本人にも家族にも責任はない。支援は社会の責務である。
○能力(行動能力・作業能力)があるが故にトラブルとなる
旧来の「障害者」イメージでは理解はむずかしい。
周囲が期待する言動・反応とのギャップ
本人のやり方と世間一般のやり方とのギャップ
○困難・苦労が理解してもらえない。スキル・知識がある故に誤解が生まれる。
できるのに努力していない。できないはずがないのにふざけている。と誤解される。できるようになるはず→無理をさせる。
→自己肯定感が阻害される。
本心や真意が非常に伝わりにくい。
独特の言動や感覚を、多数派の常識で判断すると大きな誤解をする。
みんな(多数派)のあたりまえが、あたりまえにはできない苦労。
困っている、戸惑っている、のは本人である。本人の困難・苦労は常に過小評価されている。
障害のあることは不幸ではない……本当か?
周りが、障害であることを不幸にする。障害を不幸に変えてしまう。
○何を支援するのか
1.本人の能力開発、「多数派」のやりかたを習い、多数派にあわせてスキルを獲得することへの支援→訓練 (強制)
2.本人の特性にあった方法、道具を利用して「多数派」とのやり方のギャップをすくなくする。→バリアフリー (矯正)
3.本人の特性、残存能力を活用できる場を用意して、本来持っている力を引き出して暮らせるように環境を整える→ストレングス・モデル
4.「多数派」の仕組みを変えて、どんなやり方でも大丈夫な社会にするという支援→ユニバーサル・デザイン (共生)
1→4へ比重を移してほしいですが、現実には、本人の訓練ばかりが強いられている。
○自立という言葉がなぜ嫌われるか。
生まれたときから社会の一員であり、社会参加している。
「社会参加」は目的ではない。
問題は社会参加の質である。障害があることで、質に制限がある。→支援必要。
支援「してあげる」(上から目線)→ほめるための支援
→ 「してもらう」ことを考える→ありがとう(感謝)を言うための支援
☆
ごく基本的なことでしたが、いい内容でした。
でも世間が、この基本的なことを理解してくれるかっていうと、してくれないだろうなって、思うけど。
聞きながら、いろんなことを思い出した。それでルサンチマンが疼くのが困った。
相手が言ってることがよくわかんないから、同じことを真似して言ったりやったりしてたら、ものすごく怒らせて、でもどうして自分がしたと同じことをされて憎むのだろうと、さっぱりわかんなかったこととか。
それから突然、思い出した。10代の終わりから、たぶん10年もそれ以上も、私は思ってた。
「私は私を憎みつづけるから、だから、存在することをゆるしてほしい」
たぶん、世の中で自分は生きていてはいけない存在だと思って、それでも生きたいと思ったから、見えない世間と、自分との間で、そのような契約を結ぶことにしたんだった。
自分に何かの権利があるとは思わないようにした。おかげで、どんなに金なくても衣食に困っても不満は感じなかったし、人を羨ましいとも思わなかったし、それはそれで幸せではあったが。
(でも、契約を破棄したはずのいまも、古着があるのに新しい服を買うとか、ひとりで自分のためにケーキを買うとか、罪悪感がこみあげてきて、できない。)
どこで契約を破棄したか、わからないけど、10数年間は、強烈に心にあった契約だった。苦しいといえば苦しかったが、でもそのときは、それがあたりまえだし。
でも考えてみれば、へんな契約だ。する必要のない契約じゃないだろうか。でもそのときは、そう気づかない。その契約がなかったら、自分が生きていていいという理由がわからない。
その契約のことは、もうすこし考えてみたいけど、
18歳ぐらいの子どもに、自分を憎むことが生きることの免罪符であるように考えさせた、世の中の力はなんであったか、をようやく思って、怒りが湧いた。
理解の努力が、誤解の拡大にしかならない、という状態がつづいて死にたくなったときに、気づいた。ああ、理解されようと思うほうがまちがっているんだ。理解なんかしてもらわなくていい。(この決断は、こわかった。友だちいらないと一緒だから)。
でもそう思ってから、すこしずつ気持ちが安定した。
理解してもらうことはできない。こちらが理解することができるだけ。
そんなことを、つらつら思い出した。
学校現場についての話が印象に残った。
10人の教師がいれば、2人は、発達障害の子どもへの理解がある。2人は、まったく理解がない。これは話しても無駄。あとの6人は状況によってかわる。理解ある先生がもう1人いれば、学校全体のとりくみがかわる。担任に理解がなくても、教頭校長に理解があればなんとかなる。最悪なのは、教頭校長がまったく理解しないほうの2人である場合で、そうなると転校を考えたほうがいい場合もあるかもしれない。
10分の2。悪くない。
子ども、1時間ほどはノートに世界地図かいて遊んでいて、それから部屋を脱出、ビルのなかをあちこち探検していたらしい。
☆
そのあと、バスまつり、というのに行った。
私はなんにも面白くないんだが、子どもは、ほんもののバスの運転席にすわって、楽しかったらしい。