原子爆弾の思い出

秋晴れの一日、平和公園に行く。

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平和公園は修学旅行生がたくさん。学校がちがってもみんな同じようなキルトのリュックを背負っているのは、家庭科でつくるのかな?
原爆の子の像のあたりから、ふいに子どもたちの歌声が聞こえてきたりする。

公園内の「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」に行った。はじめてではないのですが、この建物の名前、長くて、どうしても覚えきらん。
そこに、「原子焼」の一輪挿しが展示してあるよと友人に教えてもらったので、見に行こう、と思ったのでした。
被爆3年後の1948(昭和23)年に爆心地近くの土を混ぜて焼き、当時の広島市長浜井信三氏が進駐軍など外国人に送った特注の陶器。」
http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/detail.do?data_id=50345

宮島の旅館で見つかったらしい。誰かもらった外国人が忘れていったのかな、いらないと思って置いていったのかな。ごく小さな、ずいぶんかわいらしい一輪挿しだった。
それから死没者を検索したり、置いてある資料を眺めていたんだけども、昔、学生のころに、私も買ったり読んだりしたあれこれの被爆体験記がならんでいて、めくっていると、あれこれ思い出すのだが、読んだ本、聞いた話、出会った人、などの記憶は、その頃の自分の、若さというよりむしろ幼さの、あれこれの恥ずかしさとわかちがたく結びついて、思わず顔をおおいたくなった。
昔知っていた人の名前を探す。年齢からしてたぶん亡くなっていると思うけど、生死を必ずここで確認できるというものでもないのだった。


友人とお昼ご飯を食べにゆき、午後また祈念館にもどって、「われらの詩」の復刻版を見せてもらう。
「われらの詩 復刻版 全2冊別巻1付録」三人社
1949年~53年頃、広島で発行された「われらの詩」というサークル詩の雑誌の復刻版。付録は、峠三吉の原爆詩集の自筆稿本。
峠三吉、36歳で亡くなっているのか。

ざざっとめくっただけなんだけど、メモしたことだけ写しとこう。しかし、汚い字だな。

解説から。
「原爆という主題は、それだけで完結するのではなく、ほかのさまざまな個人的あるいは社会的問題に開かれ、繋がる可能性をもっていた」
朝鮮戦争こそが、原爆体験の表現化を強く促した。目前の状況に対峙する意識が原爆の記憶を召喚した」 (川口隆行)

大事な指摘と思った。福島の事故があって、それではじめて被爆体験を語りはじめたという話を、先日耳にしたばかりだけど。他者の、あるいは他者への、共感同苦のないところでは、記憶も生きてゆけないのかもしれない。
それでか、本のなかには許南麒「朝鮮冬物語」の書評なんかもあったりする。


  ヒロシマの空  林幸子

(略)
あゝ お母ちやんの骨だ
あゝ ぎゆつ とにぎりしめると
白い粉が 風に舞う
お母ちやんの骨は 口に入れると
さみしい味がする
(略)

弟は お母ちやんのすぐそばで
半分 骨になり
内臓が燃えきらないで
ごろり と ころがつていた
その内臓に
フトンの綿が こびりついていた
──死んで しまいたい!
お父ちやんは叫びながら
弟の内臓を だいて泣く
(略)

涙を流しきつたあとの
焦点のない わたしの からだ
(略)
    (われらの詩 10号 1950/12)

  道程  御荘博實

この道を遠いといふな
この道を暗いといふな
氷雨はびたびたと額を濡らし
闇は凩を巻いて過ぎるが
胸内からこみあげてくるあたたかさにこころをふるはせ
肩を張ってこの坂道を登ってゆく。
たとへ幾年の歳月をへだてようとも瞼を伏せることはない。
これを愛といふものならば愛に
これをねがひといふものならばねがひに
わたくしのいのちを賭けよう。
わたくしの血潮を捧げよう。
   (われらの詩 11号 1951/3)


それから、子どもの詩の特集もあって、見覚えがある。
「げんしばくだんがおちると、ひるはよるになり、にんげんはみんな、おばけになるのです」
という詩とか。

「原子雲の下より」という子どもの詩をまとめた本を昔読んだけれど。
そのなかにもあったのか。昔読んだときは気づかなかっただけなのか。
子どもの詩のタイトルが異様だ。 「原子爆弾の思い出」とか「原爆の思い出」とか。

たとえば小学校の文集に、「遠足の思い出」や「修学旅行の思い出」や「小学校生活の思い出」など書いた記憶はあるが、
そしていま、平和公園に修学旅行で来ている子どもたちもみんな、「修学旅行の思い出」を書くのだろうけれど。
だからタイトルは、そんなふうに「…の思い出」と書くものと思って、自然に選んでいるタイトルなのだろうけれど、

原子爆弾の思い出」
その異様さ、生々しさ。

夕方、バスで帰る。

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中秋の名月


畑からきれいに見えた。6時過ぎに、東の山からのぼった。水やりする間、眺めていた。空はたちまち暮れてゆく。お月様の観察が宿題だったらしく、息子は一時間おきに、観察していた。でも8時半が最後。東からのぼって南よりにどんどん高くなっていくのがわかったら、それでいいのかな。
もう西の山にしずんだか。

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