不変の桜草

そういえば東京で、上野の美術館に行った。ウフィツィ美術館展をやっていたので。行けてよかった。ボッティチェリを見たかったのだ。

高校一年の夏休み。辻邦生の『春の戴冠』を読んだ。上下二冊の分厚い本。それがサンドロ・ボッティチェリとロレンツォ・デ・メディチの話だったのだ。「美」とか「永遠」「神的なもの」そういうことについて、彼らはえんえんと語り合う。なんだかわかんないまま魅了されて、ひたすら読んだ。私の15歳の夏は、あの本のなかに埋め込まれていると思う。んっとね、桜草の話がありました。移ろいやすい、目の前のひとつひとつの桜草のなかに、私たちは不変の桜草を見ている。

うっとりした。ボッティチェリの絵を見たら、あの15の夏の、うっとりした気持ちのなかにそのまま戻っていくような感じがした。

それからメディチの春が去って、サヴォナローラに帰依したのちのボッティチェリの絵の画風が変わる。こんなに違うのかと、驚いた。それは聖母子とそれをとりまく群衆の絵ではあったのだけれど、まさか、あのプリマヴェーラを画いた人が、と思うような険しさで、ふと、いまのイスラム国のことなど、思い浮かんだ。

それはそれとして、たくさんの聖母子像、いろんな聖母子像を眺めながら、なんだかしあわせな気分だった。それは至福を伝えようとしている。捨て子養育園美術館の聖母子像がきれいだった。

ゴッホの手紙に、ぼくは目の前のオリーブ畑を画いているが、ゲッセマネのキリストのために画いているのだというような言葉があったことを、考えた。