歌誌「合歓」に、黒岩康さんが連載されている山中智恵子研究。
なかなか難しいので、読みながらぼうっとしたりしますが、
「合歓」70号の最近のに、原田禹雄さんの文章がひかれていて、ふいに、目の奥が熱くなった。
「聖なるものとの出会いは、今すぐできる。(中略)『俱舎論』『大智度論』『摩訶止観』の美しい世界と見事な言葉には、息をのむ思いがする。そのような「聖なる世界」「聖なる沈黙」に向きあって、私は短歌作品を制作してきた。山中智恵子だけは、いつも私の作品を、その出典とともに読んでくれた。たとえ一人でも、このような読者に恵まれたことは、私の生涯の奇跡なのかもしれない」
原田禹雄「聖なる視座を」『短歌朝日』25号(2001年7&8月号)
歌人はかくあるべきかなと思っても、『摩訶止観』なんて見たことない。天台の名前くらいなら聞いたことあるけど。『法華経』の現代語訳なら、本棚のどっかにあるかもしれない。
昔、高校生の頃に、図書館のすみに、古い経典があって、法華経の書き下し文を読んだかな。梁塵秘抄や閑吟集や謡曲が好きで、そのなかに法華経がたくさん出てくるので、出典を探して読んだ。あのころは、古文も漢文の書き下し文もわりとすらすら読めたのが、いまとなっては不思議だ。
思い出したのは、山田忠義さんの『天鼓』という歌集のこと。タイトルは法華経の「天鼓自然鳴(てんくじねんみょう)」から。世の中にこんな美しい言葉があるんだなというのは、救いです。そのなかに、満州からの引き上げのときに亡くなった妹さんのことを詠んだ歌があって、私の偏愛の一首。
満州の土に還りし妹よこおろぎ真似て跳ぶのはおやめ
山田忠義 歌集「天鼓」
千年ニ千年、跳んでいていてほしいこおろぎ。