記憶と記録

そりゃもちろん、片付けられない私が悪いですけどね。

ときどきパパが、私の机の上を片付けている。だいたい手に負えないほどひどいので、手を出さずにいてくれるのだが、ちょっとしたものを片付けていくんである。ボールペンとか鉛筆とか消しゴムとか物差しとかホッチキスとかハサミとか。
それらを探して、机の上に絶妙につみあげた本やら紙くずの類を、あっちに動かしたりこっちに積みあげたりしているうちに、
苦労して探し出した古い資料とかが、またどこに行ったかわかんなくて、また探さなきゃいけないとか、開いといたファイルを閉じてしまって、また最初から探さなきゃいけないとか、
わけわかんなくなる。

だけど、どうしてこんなにボールペンがなくなるのか。
不思議だったが、居所がわかった。棚の上のペン立てにあった。何本もぎゅうぎゅうに押し込まれていた。そこは立ち上がらないと手が届かないので、私は日頃使わない。ボールペンは引き出しから出して机の上に転がしておくというのが流儀なのだ。

さわらないでほしい。
と思うが、片付けろと、怒るに違いないので、だまっておく。

かわいそうなのは、息子である。机があるのが、寝室なので、片付けないと寝られない。もうそろそろお風呂の時間、寝る時間だから散らかさずにおこう、というような考えは働かない。それで、毎晩のように片付けろって叱られているが、どうやって片付けていいかわからないくらい、物が多い。玩具も、絵や字を書いた紙屑の類も。
片付けることができるのは、息子ではない、と思う。目の前の紙屑を捨てていいかどうか、私だってわからなくて片付けられない。

片付けることができるのは、きっと時間だけだ。
ある程度時間がたてば、これはいる物、これはいらない物、すっきりと分けて処分できるだろう。
でもそのときにはまた、まだどうしていいかわからない、たくさんの玩具や紙屑が、目の前にあるんだろうなあ。
それでパパは、息子の机の上からも鉛筆や消しゴムを片付けていくのだった。



さて。
私は、パアラランの記録の整理にとりかかった。
全然整理してないが、そのときどきの記録はある。ぐちゃぐちゃな記録だが、とにかく記録があってよかった。
最近こわいのは、記憶が消えることです。人の名前とかの固有名詞、それからカタカナの言葉、そういうものが、ふっと消える。わからなくなる。

──書いておかなければ消えてしまうよ。

昔、東京にいたとき、一度、司修さんにお会いしたことがあって、そのときに言われたんでした。
大事なことは忘れないと思っていたんだけど、いいえ、忘れる。消える。

断片的に書き留めていることのすきまに何があったのか、思いをこらして考える。

2002年までのことを、この冬に冊子にまとめましたが、その続きを書こうと思っています。これ以上あとまわしにしたら、きっともう本当に整理できなくなると思う。

パアラランを訪問してくれる若い人たちは、何でもいい、自分なりのやり方で、記録しておいてくれるといいと思う。20年後か30年後、それは、とても大事な記憶になると思います。



 こころには手品師がいて消えた鳩を記憶の空から取り出してくる    野樹かずみ