パヤタス・レポート 5 ビン・バギオロの死

ビン・バギオロが死んだ。3月31日。まだ49歳だった。血圧が高かったという。それにものすごく忙しかった。本も書いていた。貧しい子どもたちへの教育や、地域開発に関わる本を、何冊も書いていた。彼が死んで、ユニセフユネスコのスタッフたちもみんな泣いたよ。
と、レティ先生は言った。 Img_0239

ビン・バギオロは、教育NGO「劇を取り入れた子どものための教育の実験室(略称チルドレンズ・ラブ)」の代表だった。パアララン・パンタオを20年前の開校当初から、教科書の提供や教師のトレーニングなどさまざまなかたちで支えてくれた。チルドレンズ・ラブのセミナーは定評があって「よそではお金をとるんだけど、ここはお金がないから、ただ昼ごはんだけだ」とレティ先生はいつも笑っていた。ビンがいなかったら、パアララン・パンタオという学校がなかった。ほんとうに言葉にできないほど、かけがえのない友人だったのだ。



ストリートチルドレンとともに』というタイトルの、世界各地の取り組みを紹介したユネスコの報告書(1995年)に、パヤタスのゴミ山の学校「パアララン・パンタオ」のことが書かれている。以前にレティ先生にもらったもの。この文章を書いたのもビン・バギオロだろう。

「ゴミ山に学校を創るといったら興味深い話だが、パアララン・パンタオはユニークな学校だ。パアララン・パンタオには定期的な収入はなく常勤の教師もいない。すべてがありあわせだ。生徒たちに制服はなく、学年もない。ここは空っぽの建物からはじまり、ゴミ山からリサイクルしてきたものでまかなわれている。生徒たちは既存の学校制度をはずれた者たちだ。
 パアララン・パンタオは、二つの組織の協力でできあがった。一つは地域の住民組織「ダンプサイト隣人組合」、もう一つは、新たな教育芸術を目指すグループ「劇を取り入れた子どものための教育の実験室(略称チルドレンズ・ラブ)」である。
 財源はごくわずかだったが、子どもたちに教育を与えたいという熱い思いと、人間本来の創造性で、この地域の子どもたちにもっとも必要な学校を創りあげた。子どもたちには、仕事を続け家計を支えながら、自尊心やアイデンティティーを形成できるように、時間的に融通のきく学校が必要だった」

 「パアララン・パンタオのねらいは明快だ。
○共同体を支援し、創造力や機知に富んだ可能性を開発する。
○子どもを一人の個人として、あらゆる面で創造的な人間として受け入れる。
○子どもに安らぎの場を与える。既成の教育観にとらわれず、学習成果や創造的な経験の分かちあいの場としていく。
 パアララン・パンタオは子どもたちに知識を与えるだけでなく、行動を重視した学習過程から、自分自身を見つめる勇気を与えた」
(以下略)

この文章のタイトルが「地球が舞台」というのだった。チルドレンズ・ラブは、演劇と教育を結びつけて、子どもたちの、とりわけストリートチルドレンなど虐げられた子どもたちの自己解放や、自己表現を励まそうとしていた。パアラランの子どもたちも、チルドレンズ・ラブの指導を受けて、マニラの他の学校も参加するフェスティバルに参加したりしていた。

学校の支援に取り組み始めた最初の頃に、この文章を読んで、私たちはニュースレターのタイトルを「地球が舞台」としたのだった。



1997年頃、親や隣人から虐待されている子どもたちの問題をレティ先生が相談したとき、チルドレンズ・ラブがスタッフを派遣して、10代の子どもたちのワークショップをもってくれたことがあった。そのときの記録。

 「通称を「チルドレンズ・ラブ」というNGOがある。パアララン・パンタオの開校当初から、教科書の提供や教師の育成など、学校への技術的な支援を行なってきた。アランは、チルドレンズ・ラブのスタッフ。レティが精神的に不安定な生徒たちの問題を相談したことから、このところ毎週来ている。
 アランの早口の英語を、レティがゆっくり喋り直してくれる。彼らのNGOがいま取り組んでいるストリートチルドレンの売春やエイズの問題を彼は言い、日本の子どもたちにはどんな問題があるのかと訊く。その頃しきりに報道されていた、いじめや自殺の問題を言うと、「10歳や15歳の子どもが自殺するのか?」と驚いている。子どもが自殺する。どんなに生きる環境が厳しくても、ここではまず考えられないことだ。
 夜、一度帰宅して夕食をとった生徒たちが戻ってくる。10代の12人の生徒が、アランを囲んで輪になってすわる。これで3度目のワークショップがはじまる。目的は、つらかったり、不幸だと感じた経験を、自分のなかに閉じこめるのではなく、問題を分かちあうことで、乗り越えていく強さを見いだすこと。
 歌やゲームでなごやかになったところで、アランは黒板にグラフを書いた。横軸に年齢、立て軸に数字を0から5まで刻む。数字は幸福感をあらわしている。5がとても幸福、0がとても不幸。「ライフグラフ」とアランは書いた。
 まず自分のライフグラフについて語ったアランは、生徒たちに、それぞれのライフグラフをつくらせた。ひとりの少年は、10歳のときを5として、そこで書くのをやめた。アランを見て笑っている。「その後はどうなの?」とアランが促すと、彼は5から現在値(12歳)の0まで一気に下降線を引いた。もう笑っていない。アンジーも現在値は0だ。
 おずおずと、子どもたちは自分自身について、語りはじめた。
    *    *
 いったい、子どもたちをとりまくどんな問題があるのかと訊くと、アランは言った。「具体的には、親や隣人からの肉体的暴力や言葉などによる暴力。体や心が傷つけられると、それは必ず心理的な問題になって残る。ケアが必要だ」
 家庭で暴力にさらされた子どもたちがストリートチルドレンになっていく。親の性暴力から逃れるために家を出た女の子が、ストリートで売春を覚えていく皮肉。彼女らもやがて結婚するが、離婚するケースが非常に多い。でも子どもが残される。同じことが繰り返される。貧困、家庭崩壊、子どもへの虐待、売春、犯罪が密接にからみあっている。
 「日本ではどう?」とアラン。
 「子どもへの暴力は日本でもある。でも大人たちは知りたがらない。子どもたちは話せない。傷ついた子どもは自分を表現できないでしょう。それが暴力だと認識できるとも限らない。暴力は隠されてしまう」
 「それが一番問題だ」とレティ。
 パアララン・パンタオでは、1人の男の子と4人の女の子のケースがあきらかになっていた。9歳の男の子は父と兄からの肉体と言葉の暴力。女の子たちは義父や隣人からの性暴力。
 発見された暴力はほんのわずかで実際はもっとあるだろう。「このような犯罪が現実にあることを、まず知らなければいけない」とレティは言い、「子どもの権利を守るために闘える強さが要る」とアランは言った。
 「子どもたちに自分がひとりの人間だと認識させること、暴力を受け入れない、立ち向かう動機づけを与えること。そして、何よりパアララン・パンタオのように、暴力から子どもを守れる場所が必要なんだ」
 子どもたちには、心から安らぎを感じられる場所が必要だ。とりわけ家庭が危険になってしまった子どもたちにとって、パアララン・パンタオの存在はかけがえがない。」

たぶん、その年に、ジェーン先生は高校を出て、パアラランで教えていて、17歳か18歳のとてもシャイな女の子だった、彼女がチルドレンズ・ラブの講習を受けに行くときに、一緒に事務所に行ったことがある。スタッフのひとりが、彼らの活動について、いろいろと話してくれた。さっぱり英語を理解しないこのものわかりの悪い頭に向かって、実に忍耐強く。ストリートチルドレンたちを強制的に保護するということはできない。それで電話番号を大きく書いた名刺を配って歩いていると言った。何か困ったことがあったり、危険を感じたら、電話することができるように。



パアラランに出入りしていてビンと親しくなった留学生も多いと思う。
レティ先生が今でも忘れられないのは、フィリピンのバクラ、を卒論のテーマにした日本の留学生から相談を受けて、一緒にビン・バギオロにインタビューに行くことになったときのことだ。ビンはバクラ、アランもバクラだった。
「マキ(日本の学生)は恥ずかしがって、「もういい、もう終わった」って言う。まだ何もはじまっていないのに、どうして終わるのかって言って、ビンのところに連れて行った。それでビンに「どうしてバクラになったんですか」ってマキはきくんだけど、きいてるマキのほうが、女の子みたい、バクラみたいだったよ。」
と言って笑う。ああ、この話は何度聞いただろう。
「マキはいま、どうしてる? マキと一緒に来ていたマクドはどうしてる?」とレティ先生がなつかしがっておりました。
クヤ・マクド、クヤ・マキ。どこかでこの記事を見ることがあったら、連絡してあげてください。学校が存亡の危機にあった時期に通ってくれた学生たちのことは、レティ先生も忘れがたいみたいです。

ビンが、学校で父兄を相手にセミナーを開いたときに、そのあとで母親たちが、市場で子どもたちの文具を買っているのを見て、本当に喜んでいたということや、ああ、いろんな話を思い出す。

1度か2度会っただけの私でさえ、思い出せばせつないのに、親しかった人たちは、どんなに悲しいだろう。みんなどれほど彼を頼りにしていたろう。
心より、冥福を祈りたいと思います。

写真はジェイソン16歳。