8月6日

黒い雨裁判。認められてよかった。私が住んでいるあたりも降ったのだ。団地のおじいさんが、子どものころに黒い雨浴びて、服が黒くなったと話していた。年とって体がしびれるようになると、黒い雨のせいじゃないかと考えるらしかった。そのおじいさん、ひとりで路上をふらふら歩くので危なかった。あれから施設に入ったのだと思う。まだ生きているのかどうかわからない。
町内会で、黒い雨を浴びた人のための、健康相談のお知らせを配ってまわったのが、10年くらい前かしら。

春はコロナがさらっていった。それから長い梅雨がきて、梅雨明けと同時に8月。

75年目の8月6日。

息子は朝から出かけていった。廃車になる黄色い車両が、岡山から下関まで回送されるので、最後のお見送りとかで。瀬野の駅に行ったら、約束もなんにもしていないのに、そこに、先輩が、やはり同じ目的でやってきていたらしい。

市内で被爆電車が走るのも少し見たらしい。

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式典の様子とか、全然知らないので、9時のNHKニュース見ようと思ったら、ニュースはコロナに次ぐコロナで、ずいぶんあとになって、少しだけ、平和式典と被爆ピアノの話題。
そうよ、東京から広島に戻ってきたとき、日常に、被爆者、という言葉を聞いて、不思議なような、なつかしいような、ああ、広島なんだな、と思ったのだった。東京にいた10年間、被爆者、という言葉を、8月6日のニュース以外には聞くことがなかった。忘れて生きていた。思い出すことがなかった。東京ではそうだった。

 

この街で学んだのは、被爆体験を大切に思うということ。悲惨さを超えた深さがあること。