富士子の肖像

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 死んだ従姉のひろみ姉ちゃんの家から、形見分けにもらってきた、富士子の肖像。
富士子って漢字だったのだと、お墓詣りに行ってはじめて知った。16歳で死んでいる。
彼女が14歳ぐらいのときに、画家さんにかいてもらったと聞いていた。画家の名前は知らない。額を外して見たけど、記名も何もない。スケッチブックを破ってかいていて、大きな絵でもないのに、部屋の隅から見ているこの子の存在感の大きさ。……また私は、富士子の傍らにもどってこれた。
 
脳性麻痺で寝たきりの子だったから、もっと幼い子の印象だった。従姉が画家に渡したのも、もっと小さな頃の写真だったけど、富士子に会いにきた画家は、そのときの14歳の富士子をかきたがった。はじめて見たとき、私たちが知っている富士子から、もうひとり別の富士子があらわれたような感じがした。そのころ、富士子は入退院を繰り返していて、もうじき死ぬかもしれないから、ひろみ姉ちゃんは絵をかいてもらったのだろうかと思ってせつなかった。
 
またこの絵に会えるなんて。従姉や伯母の面影もある。私や息子の中学生くらいのときの表情にも似ている。忘れていたいろんなことを思い出す。
ひたすらになつかしい。富士子のいた部屋が。路地の、軒の低い三軒長屋で、隣の家の女の子がよく遊びに来ていた。ふじちゃん、あそぼ、って。ふじちゃん、来たよって。富士子は寝たきりなので、子どもたちは富士子に声をかけると、あとは自分たちで勝手にそこで遊ぶのだ。母親のひろみ姉ちゃんも飾りのない人で、私たちを自由にそこにいさせてくれた。
 
高校生のとき、ある日、学校帰りにその家に行って、30分か1時間くらい、富士子の傍らで、ぼんやりすわっていただけだったと思うんだけど、じゃあまたねって、家を出ると夕焼けで、歩き出したとき、ふいに痛みが消えているのに気づいた。心のなかがとがったもので、ギシギシこすられているみたいな痛み、しんどさが、ずっとあったのが、すっかり消えている。富士子の傍らにいて、彼女の大きな目を見ていたそれだけの間に。
あのとき、なんていえばいいか、富士子の、存在の深さを思ったのだった。
石牟礼道子の「苦海浄土」で「魂の深か子」という言葉に出会ったとき、まず思い出したのは、富士子のことだった。
 富士子は私より4歳くらい年下だったから、小さいときから、私が高校を出て郷里を出るまで、ずっと身近にいた。彼女が、私のそばにいてくれたことは、恩寵のようなことだったと思う。

富士子が死んだあと一度、従姉の家に行った。富士子のいた部屋を私はとても広く感じていたのに、富士子のいない部屋はとても狭かった。それがつらく思えて、それから富士子のいない家に私は行かなくなった。

兄は、従姉の納骨を無事に終えたらしい。

やつぎばやに人が死んでゆく。言えなかったままの「ありがとう」と「さよなら」が次から次へと体のなかにふりつもっていく感じがする。
 
 
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