去年の冬に父が死んだ。病院に行って、入院してほんの一か月。末期癌。2月23日。コロナはまだ、ダイヤモンド・プリンセス号の頃で、兄は毎日お見舞いにゆけたし、通夜も葬儀も行えた。そのあとかな、感染がひろがって、学校が休校になって、というのは。
去年の夏には、従姉が死んだ。入院して、たった2週間で。腹水もたまっていたのに、かたくなに病院に行かずにいたらしかった。7月31日。家族の最後のひとりだったので、しかも里とは喧嘩して絶縁していたから、近所の人たちが、役所に連絡して、というふうだった。
従姉は、娘が死んで、夫が死んで、母が死んで、最後のひとりだったから、遺影がなかった。銀行口座も空っぽだった。
里との絶縁も、お金がなかったからでしょう。母親の葬儀のときに、面倒かけるなと言われたらしかったから。
そんな話を蝦名さんとした。両吟していたから、歌のついでに。
行旅死亡人、という言葉は、蝦名さんが教えてくれた。
従姉は生まれ育った町で、半世紀以上を同じ路地で暮らしていたのに、行旅死亡人って、不思議すぎる、と思った。
蝦名さんとの最後の両吟は、夏に終わった。書き直したいのあるよね、と言いながら、書き直せないままになった。秋になって、蝦名さんが坐骨神経痛と思っていた痛みが、癌の転移によるものとわかった。
数か月かけて、私がようやく理解したことは、一緒に死ねないし、かわりに死ねないし、そして、いつか私も必ず死ぬっていう、あたりまえのことなんだけど。
歌稿をまとめてください、歌集を出そうって言ったら、それよりも両吟集を出したいと蝦名さんが言った。ある日、少し長いメールが届いて、夢物語ですけど、と、こんな感じの本をつくるという、両吟集のタイトルは「クアドラプル プレイ」、構成はこう、とか書いてきて、
でもお金ないので、夢物語ですね、と私も言ったんだけど。
でも、あとがきのタイトルが浮かんだとき、もしかしたら、本になるかも、と思った。
それから蝦名さんの具合が急激に悪くなるなかで、あれは死神に背を押された感じ、貧乏神も一緒だけど、ほんとうに両吟集の出版の話が決まったのでしたが、
喜びあったあと、明日から入院します、と知らされた。
もう帰ってこない、とわかった。6月の終わりころ。
春頃から、蝦名さんの短歌を受け取っていた。以前のを構成しなおしたり、新しいもの、ふるえるようなのが。それをまとめ終わったら、いなくなるんだろうな、とぼんやり思っていた。最後は、短い詩を受け取った。
痛みとの闘いのあいだの、短いメールのやりとりで、いつ途絶えるかわからないメールで、原稿の校正の話をしていたのが、7月。亡くなる2週間前。ときどき空メールがきたりして、それが途絶えて、7月26日永眠。
同じく7月、フィリピンではレティ先生が入院して、コロナで医療崩壊のマニラで、入院先を見つけるのが大変だったりしながら、それでも治療できて退院して、そのあと骨折してもまた入院手術、でも8月のはじめには退院できて、
回復に努めているはずだった。安心していたのに、9月6日、逝去。
人生がざくっと消えてしまった感じがする。彼らの、ではなく、私の。知らないあいだに、風が吹いて。親しい慕わしい人たちをざざっとさらってった。
なんなの、これ。
でも、私に続きの仕事が残ってる。預かった遺稿もあるし、たぶん、パアラランもつづく。私は仕事をするでしょう。
両吟歌集、今月の終わりに刊行。本当にきれいな本ができる。
でももう、両吟をすることはない。蝦名さんはいない。
両吟、次の巻、蝦名さんからだよ。
返事ないし、つまんないし。
私は仕事をするでしょう。日常は、つづいているし、私はごはんつくるし。
これからもどんどん人は死んでゆくわけだし、私はこのあとの人生や暮らしがどうなるかわかんなくて、ふるえるけど、私の慕わしい人たちが、それぞれの死を死んでいったということは、私もできないはずはないので、死ぬことだけは絶対にできるから、そこんところは、心配しなくていいな。
ちょうどいい風が吹くんじゃないかな。