蝦名さんの短歌さんたちが、届いた。なつかしい足音で、やってきた。あとがきによると、蝦名さんの訃報を受けて、弘前の短歌の会の人たちが、かつてその歌誌に蝦名さんが寄稿した短歌131首を纏めてくれたもの。1994年から2006年。2000年以降のは、青森を去ってからの。歌は、不定期に送られてきたらしい。
なかの27首くらいは、私が、蝦名さんが亡くなる前に預かった180首のなかにもある。形を変えたり、隣に並ぶ歌が変わったりしていて、最後まで蝦名さんのもとに残った短歌さんたちも、いろんな旅をしたんだな。そして、旅のどこかで、別れてきたのだろう、そのほかの短歌さんたち。
なつかしい歌に会う。
まつすぐに私を見なくなつたのは私が汚れたせいかもしれぬ 泰洋
別の空に同じ星座がととのえば祖国とは想像力の安堵 泰洋
秋の影のほほえむ気配われながら言葉不慣れに向かう晩年 泰洋
これらは、90年代半ばまでの、野樹との両吟にあらわれた短歌さんたち。「まつすぐに」の歌を受け取ったときの衝撃を覚えてる。私が書いた歌かと思った。
そのころ私、憎悪や嫉妬や殺意というものに、直面して、それらを理解して、理解できるようになったことに、絶望していた。人の心は、謎で、隠されていて、隠されているものはこわかった。でも謎が謎でなくなったとき、隠されていたものはそういうものであったかと理解したとき、そんなものを理解するために生きてきたわけじゃない、と虚しさ半端なかった。わかるってことは、私が憎悪や嫉妬や殺意なのである。ああもう人として駄目なんだろうな、私は、と思っていた。
そして私が、人として駄目なことは、ほかの人にもわかるのだろうと怯えたし、でも、わかられないことにも怯えた。人間を騙しているお化けみたいな気持ちで。
そしてそんなことを、私は誰にも何にも話していないのに、どうしてこうも、正しく言い当ててくるのだろうと、胸痛く受け取ったけれども、書かれてしまうと、なんか落ち着いたのだった。なるほど、汚れたのである、私は、と。
それから、人間のエゴイズムや暴力や無邪気さや、混沌としながら、どんなふうに伝染したか、その伝染に私は加担したか。考えて考えているうちに、私は、私自身を、耐えていけそうな気がしてきたのだった。
なんか、なつかしいな。若かったな。
蝦名さんは天才だなと私は思っていたから、なのになぜ「言葉不慣れに」なんて言うのか、いぶかしんだけど、案外本心だったかもしれない、と今ごろになって思っている。
にしても、30代で語る、晩年。
☆★
長い間、両吟つづけていたから、それはもう中毒みたいなもんだから、しょうがないんだけど、いまも心のどこかで、蝦名さんの短歌を待ってる気持ちが続いてる。次の両吟、蝦名さんからだよ、と言いたくて言えなかった言葉が、胸のあたりに残ったまま。
次、蝦名さんからなんだけど、ほんと。
「クアドラプル プレイ」
読書メーターに紹介してもらってました。
https://bookmeter.com/books/18640031
それから、さいかちさんのブログにも。
https://blog.goo.ne.jp/saikachishinnn/e/cbfdac049f85b93ad8a34479dffc7d3b
Amazonにも、素晴らしいレビュー書いてもらってる。
https://www.amazon.co.jp/dp/486385479X/ref=cm_sw_r_awdo_navT_a_WFYXY2P9FVK93Q4TGP0M
メールやお便りもありがとうございます。読んでもらうことで気づけることがたくさんあります。本出せてよかったかなと、思います。
★
「短歌さん」と蝦名さんはいった。野樹さんはそれでよくても、短歌さんはどうかな、とか。そこに、友だちがいるみたいに。すると私は、短歌さんは、私たちが自分のわがままで使い倒していいものではない、と思いだせる。私にじゃけんに転ばされてる短歌さんを、立たせてあげて、土を払ってあげて、元気に歩いていくのを、見送ってあげなければいけないと、わかる。そんなふう。
私が預かっている蝦名さんの遺稿の短歌さんたちも、送り出してあげなければ、と思ってる。待ってて。