果実

蝦名泰洋さんの歌集「イーハトーブ喪失」(1993)には、あとがきがない。かわりに、「果実」と題したあいさつ文のようなものがはさんである。私の知る限り、蝦名さんは30年間、同じことを言っていた。同じように歌っていた。こんなことが書いてある。


「……短歌に手を染めるようになってからというもの、私は始めから失語していた鸚鵡のように黙りまたは叫んだような気がします。しかし、なにもなくても、私は黙りかつ叫んだと思うのです。世界は私に用がない。私も世界に用がない。ところが短歌は、あらゆる果実と同じように、なってしまった。

 人間が作る短歌は誰のものなのだろうか。たぶん作者のものではない。おそらく読者のものでもない。短歌は短歌のものだと思って書いてきました。短歌が短歌の国へ帰りたいとき、人間の体が必要なのだと思って書いてきました。短歌が短歌の国へ帰れるように作品を作っていく、それが私の方法でした。定型という器は短歌のことではなく、歌人のことだと思っています。
 うれしくなければ歌は作れず、かなしくなければ歌は生まれない。これらのことがなぜ両立するのだろうかという問いに熱さが残っているうちは、短歌は私の体を必要とするだろうと思います。そのあいだ、私は歌人です。
……」

なつかしいな。失語の鸚鵡、は蝦名さんの大切なテーマだったと思う。

本には「やっとできた。あーあ 歌集なんて作るもんじゃない。あーやだ。泰洋」というメモもはさんであって、声が聞こえるみたい。本心だったろうな、と思う。あーやだ、って。

あーやだ、って生きてたらまた言うのかもしれないんだけど、私の手もとには、その後の、預かってしまった果実たちが、あって、来年は、蝦名さんの歌集を出せるといいなと思う。ひそかに思ってる。春になったら考えたい。

お金がないという話を、していたなあ。いつもお金がなかった、ほんとになかった。ぼくが競馬で勝ったらね、って言ってたこともあった。両吟集出すって。無理でしょ、って私は思ってた。

なんとかなるものです。「クアドラプル プレイ」出せたし。

なんともならないのは、彼が死んでゆくことだった。思い出すと、胸が痛い。
でも、送っていった気はしてる。生きると死ぬの境まで。

陸奥新報12月10日付に、書評。ありがとうございます。

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